プロローグ2 わだつみの宮にさよなら 日本語版

 

 

 

 だめだなぁ、と思う。溜息をつこうとして、

「ゲ」

 思わずあとずさったのは、欄干らんかんにこびりついたカモメのふんに気付いたからだ。直後、けたたましいベルを鳴らしながら背後を通り過ぎた自転車にあわて、同時にひじの汚れた可能性をなげき、だが、さいわいにも汚れてはいなかった。

 そうなるとまた、彼女の注意は川へと向かう。欄干に頬杖ほおづえをついて水面みなもを見やる。時折ときおり水上バスが通り過ぎるだけの、だだっぴろい水の反射に目がくらむ。

 河口から数えて四番目、この永代橋えいたいばしから下流をのぞむと、ちょうど、見る者へ突き込んでくるかのような地形が隅田川すみだがわを分断していることがよく分かる。これが佃島つくだじまだ。河口にしょうじた幾つかの砂州さすを江戸期から造成、埋め立ててできた半人工はんじんこうの島である。

 機内摂津きないせっつの漁師が江戸幕府から拝領はいりょうして移り住み、漁村として開拓した。戦前、戦後も長らくは東京の歴史ある下町の一つとして栄えてきたが、近年は多分に漏れず再開発の波に呑まれている。豪奢ごうしゃな高層マンションやオフィスビルの建設が盛況で、足元には二線の地下鉄が走り、橋も多く、利便性は益々ますます高い。こうした現状では日頃、古い地形を意識することも少なくなる。東京湾奥にありきたりな、埋立地の一区画ひとくかくに過ぎないと思わせる。

 だが、やはり島だ。

 永代橋からの景色が一番、それを感じさせる。橋から見える島の北端部ほくたんぶ、俗に新大川端しんおおかわばたと呼ばれる地域などは特にそうだ。林立する高層マンションが昼のうちは確かに近未来的な水辺の新興住宅地しんこうじゅうたくちにふさわしい、ユートピアめく清潔感と明るさを演出しているのだが、夜となれば、それらの影がかえって全てを、大洋たいように浮かぶ巨大な要塞島ようさいとうと見せるのだ。

 目を刺す西日にしびと河口から吹き抜けるそよ風は、今日もまた、その刻限こくげんが近づいたことを知しらせている。色々と考えてしまう夜が来る。あふれ出そうとする有象無象うぞうむぞうと戦う、あの時が来る。

 しばらくして、彼女は幾度目いくどめかの溜息をまたついた。

 もう何も見えない。何も、出てこない。

 スランプ? 

 そんな御大層ごたいそうなものはいていなかった、と鼻を鳴らして自嘲じちょうする。

 しかし……。

 本当にそうだったのだろうか。

 気楽にやっているつもりで、やっつけ仕事のつもりで、本当は、とても大切な――。

 去年の今頃はどうだったかと思い出してみる。

 一昨年おととしの今頃はどうだったかと、思い出してみる。

 いつ頃までかは見えていた。いつ頃までかはき上がるものがあった。

 いつから見えなくなったのか。

 どうして、見えなくなったのか。

 そもそも、何を見ているつもりだったのか。

 視界のすみで大きな魚のはねた気がした。

 を浴びて、白い魚体ぎょたい燦爛さんらんとした。

© 2016 髙木解緒

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