1 – 1 第一章 ALMOST PARADISE わだつみの宮にさよなら 日本語版

 水中呼吸器ギルシステムのマウスピースをくわえていても、のどに貼られた声帯振動感知型せいたいしんどうかんちがたのマイクと骨伝導こつでんどうレシーバーを通して隊員同士の会話は可能だ。

 だが、思わず溜息をついた帆織ほおりの口元から大きな泡が一つ、音をたてて漏れた時、彼をつついたかりそめのチームメイトから言葉は無かった。

 素直に頭を下げた帆織ほおりは前を向き、再び、水底みなそこを舐めるようにい出す。

 両手に握る小型の杭を交互に砂泥底さでいていへ突き刺し、流れにさからって這い進む。その様子はまるで、巨大な崖を水平に登攀とうはんしているかのようだ。影になる部分を選んで片方の杭を打ち、体を引き寄せ、今度はその少し先にもう片方の杭を打つ。延々えんえん、この繰り返しだった。

 水中の夜陰やいんに紛れて五百メートル下流から接近、隠密的おんみつてきに乗船して一気に鎮圧ちんあつと人質救出を行う作戦だ。だが、灰色の砂漠めいた川床かわどこには終わりが見えない。はるか彼方かなたまで広がるように思われてくる。水塊すいかいがきしみ、鼓膜がイヤーピースごと水圧に押され続ける。

 青味あおみがかって明るい砂漠の所々には軟体動物なんたいどうぶつのコロニーがあった。各個体が側毛そくもうえた太めのミミズとも見える体を長々と巣穴から突き出し、頭頂部の網状触手もうじょうしょくしゅを広げて流下するプランクトンをし取っている。わずかな水流の変化にも敏感で、帆織ほおりたちが近づくのを感じると素早く穴へ隠れ、通り過ぎてしばらくするとまた、全身ぜんしんを揺らめかせながら慎重に姿を現して採餌さいじを始める。

 ふと、帆織ほおりの目に、十数メートル先、まだ到底とうていこちらの気配を感じられる距離ではないコロニーのむしたちが一斉いっせいに、猛然と体を引き込む様子が映った。

「来ます!」

 無線を通して彼の声がチームに伝わり、手杭てぐいに仕込まれた射出式スパイクを全員が素早く砂底すなぞこ深くへち込んだ。いかり代わりのガジェットが砂中さちゅうで展開するのとほぼ同時、激流が彼らを包み込む。皆、水底みなそこへ張り付いて姿勢を低く保ち、ただ二点にしがみついてこらえる。濛々もうもうと砂が舞う。帆織ほおりの目の前を大きなイシガニがかろやかに転がって行く。流れは一直線で終わらず、二度、三度と方向を変えて隊員たちをなぶった。そのたびに全員が棒杭ぼうくいへ引っかかったゴミのように軽々もてあそばれた。叫び出したくなる気持ちを抑えつけ、帆織ほおりは呼吸器のマウスピースを噛みしめた。

 梅雨など無いような近年だが、慣例としてのけが宣言された、よく晴れて暑い今日の昼間が思い出される。その頃の彼はまだ、水辺で遊ぶ子供たちの涼しげな様子を羨望せんぼう眼差まなざしで眺めていたのだ。今更ながらその時の自分に毒づいてやりたくなるが、そんな気分すらほとばしる激流が一瞬にして運び去ってしまう。

 事件は本日、午後三時半頃、佃島つくだじまから少し上流にあたる日本橋にほんばしの運河沿いで発生した。 

 現金輸送車の襲撃に失敗した武装強盗グループが大川へ逃げ、小型プレジャーボートで水上警察と追走劇を繰り広げたすえ折悪おりあしく別の運河から出てきた新造観光船しんぞうかんこうせん「トヨ」へ衝突した。こちらの船は記念式典と進水式を終え、初めて航路へ入ったばかりだった。

 プレジャーボートは半沈はんちん、強盗はみずからの船に比べ損傷の少なかったトヨ号へ乗り移り、瞬く間に警備員二名を射殺、遺体を投棄すると船の乗っ取りを宣言した。

 の悪いことに、トヨには運航スタッフや殺害された警備員のほか、都が進水セレモニーへ招待した各界の名士、公募抽選の当選者や周辺の小中学校を代表する子供たち、あわせて三十五名が乗船していた。大川の再開闢さいかいびゃく以来、最大級の凶悪事件が発生した瞬間だった。

 最寄りの警察署へすぐさま対策本部が開設され、解放交渉が始められたが、それは最初から徒労の気配を漂わせた。

 トヨの定位置維持装置ていいちいじそうちを除く、ほとんど全ての推進機関が衝突によって機能しなくなっていたことだけが唯一の幸いだった。東京湾へ出られていれば事態はさらに厄介なものとなっていたはずだ。

 佃島上流部つくだじまじょうりゅうぶまで流されてきたトヨでは島への衝突や座礁ざしょう回避のための緊急自動操船オートパイロットが起動、船は定位置維持装置を作動させ、大川分流点おおかわぶんりゅうてんの真ん中で停船した。

 トヨが燃料切れとなり、本格的に漂流を始めれば対処が難しくなる。事態が膠着こうちゃくしたかに見えているうちに本部が早々と急襲きゅうしゅう作戦を決定したのは必然だったろう。

 当初はこのまま突入、制圧の流れかと、ある意味、楽観視されていたとも言える。だが、ちょうど月末間近まぢかという事件発生日時が解決をより難しくした。

 大潮おおしおの、特に上げの時刻、大川おおかわの底近くには複雑な流れが幾筋も現れることが知られている。川そのものの下る流れと、しおが勢いよくさかのぼる流れがぶつかり合って潮筋が縦横無尽に暴れるのだ。潮汐観測ちょうせきかんそくからこの晩の大川では作戦決行時に最も変動が大きくなると予測され、これがSAT(特殊急襲部隊)による夜間突入を決めた警視庁最大の懸念だった。

 水深の充分な海での作戦とは異なり、常に街からの灯火とうかさらされる都市型河川としがたかせんでの激流は間違いなく、障壁にしかならない。

 さらに具合の悪いことに、ジャックされたトヨ号は全方位展望型ぜんほういてんぼうがたの船体を持っていた。

 美しくよみがえった大川を観光資源として活用するため、都がきもいり、鳴物入なりものいりで送り出した水中遊覧船すいちゅうゆうらんせんだったのだ。死角となるトイレなどの床と後部駆動系、制御部を除けば船倉せんそうはすべて透明な特殊強化樹脂製、乗客が水中の絶景を楽しめるよう設計されており、これは警察の接近、突入を警戒する犯行グループにとって非常な有利に違いなかった。

 犯人たちは陸からの狙撃そげきを警戒し、甲板かんぱんには人質の壁を作った。また現場周辺には高層ビルが立ち並び、気流が乱れやすいので空からの急襲は選択肢にない。船は目立つ。消去法で水中からの接近が最適と考えられたのだが、それにはトヨの視界の隙をって移動しなければならない。見張りの死角となる川底かわぞこの影や流水のヨレに隠れて素早く進む一方、潮筋しおすじを読み、突然の激流をやり過ごす必要がある。

 水中戦術を会得えとくしているとはいえ、プール訓練がメインの警視庁特殊急襲部隊にはこのスキルを持つ者が少ない。もちろん警視庁下部けいしちょうかぶである水上警察にも大川の流れに精通した者がいるにはいるのだが、数日前の出動で不審船を追跡したさい、水上バイクごと水面へ叩きつけられて打撲だぼく、軽傷とはいえ激流うねる水底みなそこのガイドを務められる状態では到底なかった。かと言って海上保安庁に協力を要請すればSST(海上保安庁特殊警備隊かいじょうほあんちょうとくしゅけいびたい)の独壇場どくだんじょうとなり、せっかくの晴れ舞台でSAT水上すいじょうチームの華々しい御披露目が期待きたいできなくなる。それに、海中と都市河川内としかせんないで同じ戦術が通用すると安易に考えるのは、はなはだ危険でもあるだろう。

 こうした理由から、同じ公僕こうぼくとは言え、なんの特殊訓練も受けていない帆織ほおりが突入部隊に加わり、危うい夜の川底を泳ぐはめになったのだ。大川の状況に通じつつ警視庁と直接の利害が絡まない省庁の部署であり、元々が警察業務補助の役目もあわせ持つ帆織ほおりの職場へ協力要請受諾の命令が下るのに、そう時間はかからなかった。上層部も警視庁への借しは大歓迎らしい。

 そして水中ガイドの大役たいやく帆織ほおりに割り振られるのもほとんど即決だった。学生時代に潜水行動術、水中体術すいちゅうたいじゅつかじっており、作戦にある程度順応じゅんのうできるであろうと考えられたこと、毎日の巡回パトロール大川おおかわにかなり馴染みがあることなどが評価を得たからだが、もちろん、他に適当な人材がいなかったということも大きいだろう。

「船の近くまで案内するだけが君の仕事だ。あとは全て、こちらがやる」

 突入担当の小隊長はブリーフィングで居丈高いたけだかに彼へ説いたものだ。それ以上できるものか、と帆織ほおりは思ったが口には出さなかった。

 犯行グループは北九州経由の武装を相当に充実させているらしいとニュースサイトが伝えている。できれば船に近づくことすらしたくない。突入隊員たちの装備するアサルトライフルが帆織ほおりの目に黒々と、冷たく迫った。

Ⓒ 2016 髙木解緒

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