1 – 2 第一章 ALMOST PARADISE わだつみの宮にさよなら 日本語版

「君のキャリア回復にも、うちの名誉にも関わることだよ」という直属の上司の言葉も、彼の心に寒々さむざむした感想をもたらしただけだった。秘密作戦なので恋人へ連絡しての遺言はともかく、はげましをもらうことすらできない。だが、

 

 kohada:知ってる? この辺りの水軍の子も何人か、人質になってるんだって!

 

 携帯端末にコハダから届いたメッセージを見て、帆織ほおりは行かざるをえない気持ちになった。

 犯行グループは事件発生から一時間足らずのうちに、人質から不運な著名評論家一人を選出して射殺、撮影した殺害シーンをインターネットを通じて大手動画サイトに投稿している。警察側の強引な解決手段選択への警告とも言えたが、逮捕後の損得を考えられない精神状態を彼らが行動で表したと見た方が良いかもしれなかった。いつ何時なんどき、子供たちが犠牲にならぬとも限らない。

 

 kohada:なんとかならないの、保安官? 

 

 ho‐ri:今、警察の人たちが一所懸命やってくれてるよ。

 

 彼は自分が突入部隊へ加わったことには無論れず、ニュース番組へくぎ付けらしいコハダと少し、やりとりをした。

 

 ho‐ri:危ないから、夜になる前に解決した方がい、って特殊回線を使って電話したのは君か?

 

 kohada:してない。そんな電話があったの?

 

 ho‐ri:匿名とくめいで、うちの事務所に。対策本部にもかかってきたらしい。

 

 kohada:てか、対策本部の番号なんか知らないし。あ、回線破りもしてないよ。でも、夜の大川が危ないのは事実だね。

 

 ho‐ri:それ、みんなよく言うよな? 具体的に、何が危ないんだ?

 

 返信が無いまま作戦準備の説明へ呼ばれたので、そこでやり取りは中断された。だが、出張所や本部にかかってきたという匿名の電話が帆織ほおりには気にかかっていた。夜の川をむのはここの子供たちに共通するタブーのようなもので珍しくもない。だがそれを態々わざわざ回線ハックした上、社会的重大事件の最中にまで伝えて来るだろうか――。

「あれだ」

 小隊長の声で我に返る。

 いつにもまして陸上のビルがい煌々こうこうと輝き、水底みなそこまで光を送り込んでいる。コンクリート護岸ごがんの影や、重い流れが幾重いくえにもり合って生じるよどみを除けば、あわく青い透明の薄暗うすくらがりが延々えんえんと続いて、川の中は新月のおかの上よりよほど明るい。

 その向こうにぽつんと、トヨ号の透き通る船底が確認できた。

 水中客室の照明は完全に落とされており、暗視機能付きのゴーグルをもってしても外から中の様子を完全にうかがい知ることはできない。流れに逆らって座標を維持するための小型スクリューを数基すうき、動かしているはずだが、遊覧船は完全に沈黙しているようにすら見える。

 泳いでは水底みなそことどまり、泳いではまた留まり、隊員たちはハゼ科の魚のように船との距離を縮めていく。水深は平均八メートル。フード付きウェットスーツにゴーグルという出で立ちをした帆織ほおりの、わずかに露出した顔の肌に、大川の水はぬめるようにまとわりついてくる。

 突然、トヨの船倉せんそうから鋭い光が伸びた。皆、反射的に頭を下げる。かたまりのように水底みなそこへへばりついて敵をうかがう。透明な船倉の内部で動く人影ひとかげが見えた。見張りだ。気になることでもあったのか、人影は手にしたフラッシュライトで幾度いくたびか、帆織ほおりたちのひそむ方向へ光の槍を突き刺してきた。こちらとしては身じろぎせず、見逃されることを祈って堪えるしかない。

 やがて光線は消えた。

 だが油断はできない。やっとの思いでここまで来たのだ。水中呼吸器ギルシステムの使用可能時間は残り少ないが、慎重に、影が伸びるように水底みなそこを這い、そろそろとにじり寄って最接近ポイントに集結する。最早もはや通話機器は使わない。数秒のあいだ、ハンドサインで乗船方法や装備の最終チェックをおこなう。船倉せんそうの死角を確認し、流れを読んで突入経路を見極みきわめる。

 君は下流へ、と小隊長が帆織ほおりへサインを与えた。うなず帆織ほおり。幾人かの隊員が彼へ親指を立てて見せる。感謝のしるしだろう。ほんの数十分だったが帆織ほおりの働きは彼らの認めるところだったようだ。帆織ほおりも軽く頭を下げて返礼し、武運を祈った。

 いよいよその時だ。

 部隊突入後、彼だけが全速力で下流へ泳ぎ下り、回収班に引き上げてもらう手はずとなっている。帆織ほおりは泡を漏らさぬよう、少しずつ排気した。

 船側に目立った動きは感じられず、気付かれた様子もない。

 チェックが終わり、急襲開始きゅうしゅうかいしの合図を出すタイミングを小隊長がはかり始める。

 その時だ。

 急に視界がかげった。

 ぎょっとして見上げた帆織ほおりの目に、頭上を覆い尽くす、金色がかって白くうごめつらなりが映る。

 エイだ。エイの腹だ。全てアカエイだ。いつのにか尋常でない数のアカエイが水面近くに群れをなし、陸からのあかりをさえぎっている。そして群れは悠々ゆうゆうと、帆織ほおりたちを包囲するように泳層えいそうを下げてきた。

 アカエイの尾には人間に重傷をわせることのできる毒のとげそなわっている。ウェットスーツなど簡単につらぬくことのできる、長く鋭利な棘だ。不用意に彼らを驚かして水中で攻撃されれば、作戦遂行が不可能になるどころか生死にも関わる。

 水中で出会うエイの危険性はある程度、海や魚に通じた人間ならば誰もが知っているし、ブリーフィングでの注意喚起もあった。部隊全員、身動きが取れない。

 気が付けば水が濁り始めている。川底に堆積たいせきした微粒子をエイの作る水流が巻き上げているらしい。

(動くな)

 刻々と効かなくなる視界の中で、小隊長のハンドサインがかすかに見える。

 帆織ほおりは酸素計にをやった。ギルシステムはあくまで小型かつ軽量に特化した装備だ。特殊な膜に水流を通し、水から直接酸素を得る機構だが、取り出した酸素はほぼそのまま使い、ごく少量を呼気バッテリーへ蓄えるのみで、ボンベ式のものほど長く酸素を安定供給することができない。その上、この泥だ。外側のフィルターが目詰めづまりを起こし始めていた。使用限界は通常時より大幅に下回るはずだ。

 だが耐えるしかない。外洋がいようさめに使う軟骨魚類用なんこつぎょるいよう忌避剤きひざいは、場所が場所だけに誰も所持していなかった。濁りはまだまない。まるで砂嵐に襲われたようだ。白いシルト粒子が視界をさえぎって、ついには隊員たちの姿を完全に消してしまう。エイのたてる泥流でいりゅうだけでこれほど濁るものなのか、白濁はくだくした流れは最早もはや視界を一メートルほどにまでせばめている。この泥煙幕どろえんまくがどれほどの範囲で展開しているのか帆織ほおりに分かるはずもなかったが、遠くから見ればアカエイの魚体ぎょたいと泥水による巨大な竜巻が突如、水底みなそこへ立ったように見えるだろう。トヨ号の乗っ取り犯たちも外の異変に気付いたらしい。水中をせわしなく光線が走るが、彼らにも何か見通せたとは思われない。

「ベストに異常!」

 戸惑とまどいの沈黙を破ったのは一人の隊員の無線連絡だった。

緊急浮上装置きんきゅうふじょうそうちが誤作動しました! 浮上します!」

 直後にくぐもって聞こえた音は、おそらく小隊長の舌打ちだ。

 帆織ほおりふくめた全隊員がウェットスーツの上から着用している水中兵用戦闘ベストには防弾・防刃ぼうじん機能のほか、自力で泳ぐことが困難な時のためのガス充填式じゅうてんしきフローティング機能がそなわっている。着用者の脈拍が一定を下回った場合は自動で、または手動で、超小型ガスボンベの栓へ接続された浮上スイッチを引けば、タクティカルベストは一秒でさめの歯でも貫通できない防刃ぼうじんフローティングベストへ早変わりし、強力な浮力で着用者を水面すいめんまで引き上げるのだ。

「……下流に移動して回収班に合流しろ。船上の標的とエイを刺激しないようにな」

 押し殺した声で小隊長からの通信が入った直後、コードネームの名乗りとともに、

「こちらも誤作動! 浮上します!」

「何ッ?」

「いや、違う!」

「何者かがスイッチを……」

「こちらも浮上します!」

「畜生ッ!」

 回線が混乱する。瞬くうちに浮上の報告が続きに続き、

「ガイド、そっちに行ったぞ!」

「なにが起こってるんですッ……?」「すまない、俺も上がるッ!」

 無線に気を取られ、隙が生じる。

 だが、白い濁りの中から自分の浮上スイッチに伸びた黒い手を、帆織ほおりはあわや払いのけた。逆にその手首をつかもうとしたが、するりと逃げられてしまう。濁りの向こうに何者か、四肢しし持つ者の泳ぐ気配がする。水中に定位ていいしてこちらを見つめる、意志のこもった視線を感じさせる。人だ。ふと、その気配がゆらぐ。ふいを突き、帆織ほおりの全く予想外の方向から彼のスイッチへ再び手が伸びた。僅差きんさでかわす。

 何者か、相手は相当に泳ぎが達者たっしゃらしい。それにこちらが見えるようだ。だがその理由を考えるひまは無い。帆織ほおりも潜水活動にはそれなりの自信があるほうだが、相手は彼にない身軽さで縦横無尽じゅうおうむじんな間合い取りから彼を襲った。

 身を引いて帆織ほおりは逃れ、また逃れ、

(――強盗の、仲間ッ?)

 違う気がした。

 を置かず圧倒する攻勢こうせいには悪意や敵意より、何か、ひどくがむしゃらなおもいを感じる。いらつきが水を通して伝わってくる。き出しのあせりが叩きつけられている。

(捕まえてやる)

 なぜか、彼は逃げる気にならなかった。

 無関係な手柄てがらを意識するはずはない。小隊長も含めほかの隊員が全滅したらしい中で、部外者に過ぎない帆織ほおりが粘る必要はまるで無かった。素直に浮上するか、相手の隙を突いて流れに乗り、逃げてしまえば良いだけの話だ。だが、それらの選択肢は不思議と出てこなかった。

(よし!)

 相手が動いている間合まあいのうちなら、アカエイはいないはずだ。帆織ほおりは呼気バッテリーの残りを最後に深く、一吸ひとすいして呼吸器を捨てた。記録用動画カメラ付きのヘッドセットもはずれて流れていったが、少しでも身軽なほうが良い。やるべきことは、この襲撃者を捕まえ、拘束し、一緒に流れ下る、それだけ。突入はどうせやり直しだ。

 相手にはこちらの動きが分かる。そこにつけこむ。

 視線をはずして誘いをかけると、相手は拍子抜ひょうしぬけするほど不用心に襲いかかってきた。

 帆織ほおりの右手が細い手首を今度こそ、がっちりとららえる。

 つかみ取りの魚にあるような骨のきしみがぎくぎく伝わってきた。浮力を使い、体全体をひねってたくみにのがれようとしているらしいが、こうなれば帆織ほおりも離さない。体格でまさぶん、重さと筋力ではこちらが有利だ。後ろ手に相手の手首を捻じり、ぐいと煙幕から引きり出す。左手は後ろえりへかけ、上半身の動きを封じた。大反おおぞりの頭突ずつきをかわす。影がもがき、黒髪が彼の鼻先で揺らめく。

 さらに右手で手首をひねり、左手を前へ回して華奢きゃしゃな上半身を腕全体でかかえ込むようにした時、帆織ほおりは相手が少女であることを知った。育ち盛りの体つきがウェットスーツしでもひしひしと感じられ、自分がこの場から逃げ出さず、素直に相手へ向き合った理由を、彼は一瞬にしてさとったのだった。見知った顔がまざまざと思い起こされ、

(こいつは、俺の仕事だ――)

 少女。

 とある少女。

 彼はうなった。思わず腕に力がこもる。

 その時だ。どう、と風が吹いた。いや、水中に風は吹かない。一瞬の大風おおかぜとも思われる衝撃波が通り過ぎたのだ。無数の小さな渦潮うずしお一斉いっせいに流れ下った。水中で絡み合う二人を置き去りに、世界だけが過ぎ去った。

 一呼吸ひとこきゅうおいて気が付けば、濁りがすっかり消えていた。どこまでも透明な水と、耳の痛くなる静けさだけがそこにあった。

 大都市のあかりがさしこむ川床かわどこは、どこまでもどこまでも広がる灰色の砂漠のようであり、

(――なんだ、あれは?)

 遠く遠く河口の方角、はるか遠くから砂の色が変わりつつあることに帆織ほおりは気付く。

 違う。砂の色が変わっているのではない。白や桃色の何か、葉の無い、茎と花弁だけの植物のようなものが次々と川底から芽吹めぶいていた。水底みなそこに咲くチューリップめいたそれらは次から次へと砂を突き破ってはにょきにょきを伸ばし、幾つも幾つも、一輪いちりんずつの花を咲かせる。砂漠のようだった川底がたちまち一面の花に覆われ始めている。

 やがて開花は押し寄せて来た。

 ゆらゆらゆらと揺れている。歩いて迫ると思われる。トットコトットコやってくる。生えてくる。生えてくる。生息密度せいそくみつども濃厚に、みしみしみしと生えてくる。いつしか始まっていた耳鳴りが、楽しげな太鼓たいこのリズムに聞こえ出す。

 トントコトットコトントコトットコ、トントコトットコトントコトットコ。

御前みまえきてみちそなえ! 御前みまえきてみちそなえ!〟

 芽吹めぶきはどんどん近づいて来る。嬉しげに、生命の息吹をこれでもかとまといながら迫って来る。喜びの福音ふくいんやすらぎと慈悲じひの気配に満ち満ちて、どんどん、どんどん近づいて来る。

 生えてくる、生えてくる、体の中から生えてくる。みしみしみしと呼応こおうする。

 トントコトットコトントコトットコ、トントコトットコトントコトットコ。

 呼ばれている、呼ばれている。呼ばれている、この感覚……。

 ふいに、帆織ほおりの左手の甲へ鋭い痛みが走った。

 思わず力がゆるんだ隙を突き、影はするりと彼の腕から抜け出してしまう。身をひるがえし、帆織ほおりと対面したその手には白々しらじらと、ぬめるように光る骨のナイフが握られていた。

 おのが口から空気が漏れ出しているとも気付かないまま、帆織ほおりは相手の手元てもとをまじまじとながめる。よく見ると骨でない。奇妙なほど大きな、エイの尾棘びきょくだ。エイのとげから毒を抜き、ぎ加工したナイフ……。

 ようやく目線を上げる。誰であるかは、もう知っている。なぜここに、とは思ったが、同時に、それほど不思議ではない気もした。対策本部へ怪電話をかけてきた人物にも見当けんとうがつく。二連式にれんしき水中眼鏡ゴーグルの奥で輝く両眼りょうめに焦点が合い、彼はその光にとらわれた。視線をはずせなかった。満月に照らされた夜の外海がいかいを思わせる、静謐せいひつな力に満ちた眼差まなざしに帆織ほおりはただ、見惚みとれた。

(しまった!)

 幻想げんそうは瞬時に消滅する。

 こちらへ伸びる指先へ気付くのが一瞬、遅れた。浮上スイッチが素早く引かれ、帆織ほおりのベストが時置ときおかず膨張する。浮力の増した彼の体は水面すいめん目掛めがけて急激に引かれ始める。

 一方、少女は水底みなそことどまり、ぐんぐんと登っていくこちらをずっと、見上げていた。そして帆織ほおりもまた、見ていられる限りずっと、彼女を見下ろし続けた。

 揺らぐ視界の中で、しなやかな影はりんたたずんでいる。輝く両眼は濁りなく澄み切って、よこしまな色などただの一滴ひとしずくも無い。彼女は無垢むくで、確かな決意に満ちている。

御前みまえきてみちそなえ!〟

 はっとした。

 帆織ほおりの心の中に突如としてあるイメージが芽生めばえた。それはほんの一瞬、ひどくまばゆひらめいたのだ。だが一瞬で充分だった。水面すいめんを割った時、帆織ほおりはもう一度潜ろうとさえ思った。まとわりつく浮力体ふりょくたいが無かったら実際そうしていたに違いない。

 乗っ取り事件そのものは突入部隊の自滅後じめつご、犯行グループが急遽きゅうきょ投降とうこうを宣言して決着がついた。

Ⓒ 2016 髙木解緒

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