1 – 3 第一章 ALMOST PARADISE わだつみの宮にさよなら 日本語版

 山麓さんろくからみ出す雪解ゆきどけ水は岩体がんたいゆるく削り、超大陸の一部に広大な傾斜地けいしゃち形作かたちづくっている。鮮烈せんれつ清水しみずをたっぷり含んだ苔類こけるいがはるか地平線までい広がり、大地は一分いちぶの隙も無く、あざやかな緑に覆われていた。

 仰向けに寝転んで空を見上げれば、植生しょくせい絨毯じゅうたん濾過ろかされた岩清水いわしみずが肌にみて心地良い。はずむ苔の感触は、直下に硬い岩盤があるはずなのに、そのまま地のうちへ沈み込んでしまいそうな浮遊感を与えてくれる。

 体を起こせば、その連続する天然の寝台しんだいの上にちらほらと、白い物体が二つずつ、寄りいあっている様子を認めることができる。つがいだ。まだ雄雌しゆうの区別もつかぬまま、じゃれ合い、歓声を上げているのもおり、性に目覚め、相聞そうもんの歌を交わすのもおり、半身はんしんを清らかな水溜みずたまりへひたして精包せいほうの取り込みや産卵を行うめす、それを外敵から守るべく辺りをうかがうおすなど、それぞれのつがいにそれぞれの時間がある。

 空には鉛色なまりいろの雲がれ込め、はるか山々のいただきには万年雪が積もり、そこから吹き降ろす風はこれからおとずれる寒冷化の予兆と思われるほどに冷たい。

 しかし彼ら、彼女らはしっとりと白い体表をあますことなく外気へさらし、精力的にうごめいている。

 もっとも、そもそも有尾類ゆうびるい、すなわちサンショウウオやイモリなど、両生類のうちカエルでなく尾があるものの多くは基本的に耐寒性たいかんせいが高い。氷河ひょうが地帯に生息する種もいるほどで、気候の冷涼れいりょうなぶんには活発に動き回り、繁栄を謳歌おうかすることができるのだ。

 ふと、胸にかかる吐息といきに変化を感じた彼は、自分の腕の中へ視線をてんじた。

 先ほど彼が目覚めた時にはまだ、昏々こんこんと眠り続けていた彼女だったが、鋭敏な触覚しょっかくが何か不快を感じたらしい、眠りこけつつも顔をわずかにしかめ、唇をとがらせて、肉付きのしなやかな体をよじったり、丸めたりしている。こちらへ身を寄せ、ひたいや鼻づらをこすりつけてくる。

 原因を探して! と、夢のまにまに寝相で命じているのだろう。

 彼は微笑ほほえんだ。横着者を抱き寄せ、うすい背中へゆっくり手のひらをすべらせる。そっと指先をわせ、優しく異物を探す。

 有尾人ゆうびじんの少女はくすぐったそうに身をよじって再び体を押し付けてきたが、そのくせまだ目覚めない。くうくうと眠る相当のねぼすけだ。寝息がまだ、温かかった。日毎ひごとがれるなめらかな肌具合はいまだにヒトのものだから、体温も高めなのだろう。摂氏せっし三十度を切るまでに幾らか余裕がある。

 だが回帰かいきは確実に進んでいる。

 基幹分泌腺きかんぶんぴせんからは溶媒粘液、毒腺どくせんからは毒液、年頃の娘らしい青臭あおくささと甘い腐臭ふしゅうの入り混じるあの毒液、が分泌されて、体表のパレットで混合された乳液として彼女の全身を薄く覆っていた。それは紫外線や有害な微生物から彼女を守るために生成されるのだが、どうやら望まない雄を退しりぞける効果もあるらしい。彼の手には少し、刺激が強かった。彼女は単に甘えたいだけなのだ。彼の体温をほっしているだけだ。

 流れる髪の下へ手を入れ、耳の裏から首筋、脇から脇腹、かげる部分を重点的に、彼は柔肌やわはだぬくもりをまさぐる。

 やがて指先が二匹、吸い付いていたひるを見つけた。

 爪を使って引きがす。一匹はまだだったが、もう一匹は早くも肌を食い破って盗み飲みを果たしていたから、彼は咬傷こうしょうの周辺部をやんわりとつまみ、少女の血中にとどまっているであろうヒルジン(蛭の分泌する麻酔性の血液凝固防止物質けつえきぎょうこぼうしぶっしつ)を追い出すことにしばらく専念した。

(――この時代の蛭も、すでにヒルジンを持っていたのだろうか) 

 指先を伝って流れる熱いしたたりを感じながら、ふと彼は考える。

 生物は常に、より良く生きる方法を身に着けてきた。体を変え、環境に応じ、例えそれが数世代のうちには実現されずとも、より良い暮らしを目指してきた。

 とすれば、彼の時代の蛭と同等の能力を石炭紀せきたんきの蛭が有しているとも考えにくい。仮に、すでにヒルジンを獲得していたとしても、その効力は弱かったのではないだろうか。

 そう考えてみると、心なしか血の止まりも早かったようだ。岩盤がんばんの裂け目から出る水で手を洗い、水苔みずごけや自分の体でぬぐった彼は、彼女を驚かせぬよう、ゆっくり半身を起こした。

 胡坐あぐらをかき、さらに調べるべく、たおやかな裸体へ向き直る。

 彼の時代の情報が正しければ、石炭紀後期せきたんきこうきの寒冷な気候からさかのぼってデボン紀が近づくにつれ、世界は段々と温暖になっていくはずだ。それだけ蛭も多くなるだろう。

 それに、今のうちに彼女の人間としての形、直立二足歩行する四肢しし動物の形をとどめた段階での素晴らしい造形を、しっかり記憶に刻みつけておきたかった。もちろん、最終的に彼女がどんな姿になろうと、最後まで見届けるつもりに変わりはないのだが。

 いつのにか伸びに伸びた黒髪は艶々つやつやと長くうねり、うつせの背中へ見事に照りえていた。二つの吸着痕きゅうちゃくこんと一つの咬傷こうしょうの他には染み一つない肌が、空へ焼き付くように白光りする一方、細いうなじやはっきりした肩甲骨けんこうこつのぞかせながら背中を覆う漆黒しっこくの流れが明滅めいめつし、強烈な対比をなしている。

 伸びやかな腕や脚の際立つ肢体からだは一見、華奢きゃしゃだ。だが、その内側には柔軟じゅうなんな筋肉が存分に待機たいきしていることを彼は知っていた。肩骨かたぼねの丸い張り出し、腕から手のひら、指先へ至る輪郭りんかく依然いぜんとして優美ゆうびなままで、こうしたところは、すっくりした立ち姿が印象的だったあの頃と少しも変わっていないように思われた。

 しかし、腰のわずかに下辺りから、変化は如実にょじつに現れる。

 臀部でんぶの割れ目を埋め合わせるように、半透明な尾鰭おびれ外縁がいえんが始まっていた。

 上等の葛餅くずもちのようにぽってりなめらかで肉厚のひれは真横から見ると鉾先形ほこさきがたをしており、かかとを超える長さにまで伸長した尾骨びこつを覆う肉と肌とを垂直にゆる縁取ふちどっている。うろこはまだ無い。

 有尾人ゆうびじんたる所以ゆえん、少女はオタマジャクシの尾を持っているのだ。

 どう見ても大地をけるために用意されたであろう二本の長いあしと、そのあいだから伸び、寝乱ねみだれた着物のすそに似てしどけなく地をる尻尾には不釣り合いな官能がある。

 と、こちらが体を離したせいで体温を外気に奪われたらしい、一瞬ぶるりと震え、きゅっと体を丸めた彼女を見て彼は我に返った。

 変温動物化が進んでいる最中さいちゅうなだけに、温度変化には気をつけてやらねばならない。あわてて彼女を抱き上げる。かかえ込んで密着し、体温を分け与えてやる。

 未完成ながら形好かたちよく膨らんだ乳房ちぶさ贅肉ぜいにくの無い、なめし皮のようにすっきり張り詰めた腹部のまだ瑞々みずみずしいことは背面はいめんと同じだ。あきらかに人間の少女である。肺呼吸も確かで、ゆっくりと息が出し入れされるたびに胸や腹がなまめいて柔らかくうごめく。

 だが、へそが無い。

 つるりとした下腹部かふくぶはそれこそ冬眠明けのサンショウウオのようになめらかで、その下をさらに見やれば、無毛むもう恥丘ちきゅう向こうにひそむのは人間のそれでない、総排泄孔そうはいせつこうなのだ。

 繁殖準備の整いつつあるサインだろう、赤味あかみがかってきた周辺部位がふと視界に入り、彼はとっさに目をらした。それは最早もはや〝秘所〟とも呼べぬ、便と、寒天質に包まれた卵嚢らんのうを放出するためだけの穴に過ぎない。真胎性しんたいせい有胎盤型哺乳類ゆうたいばんがたほにゅうるいにとって勝利のあかしではなかったか。

 そんなこちらの気分はまるで知りもせず、彼の胡坐あぐらの上で丸まった彼女はもぞもぞ体を動かしては寝返りを打ったり、身をよじったり、そのうちおさまりのい位置を見つけたのだろう、みずからの尻尾をけ布団わりに再びすやすやと、寝息を立て始めた。

 今はまだ、両生類りょうせいるいの時代……。

© 2016 髙木解緒

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