1 – 4 第一章 ALMOST PARADISE わだつみの宮にさよなら 日本語版

「バイシクル」と「カヤック」を合わせた造語が「バヤック」だ。

 フロートやどうなどと呼ばれる縦長たてながの浮力体を水に浮かべ、タイヤを外した自転車をその上に乗せたような外見を持つ軽船舶けいせんぱくの総称である。自転車部分のペダルを漕ぐことで浮力体後部のスクリューが回転し、水面を道路代わりに滑走かっそうする。走る場所と仕組みの少々違うことを除けば、まさに「水上自転車すいじょうじてんしゃ」と言って良い。自転車のように気軽に、身近に――。

 防錆ぼうさびはもちろん、滑走性向上のための船体表面の特殊加工、漕ぎ抵抗の限りない軽減、その他、水上走向に必要な工夫が様々にらされているとは言え、チェーンによる駆動系やハンドルによる舵取り、ペダルやサドルの突き出た車体の基本的デザインまで、内外の構造は自転車とかけ離れてしまうことが無いよう、敢えて設計されている。技術の向上によってメンテナンスも月に数度、真水で洗ってやれば良いだけ、自転車より少しかさばるくらいで、メインフロートの下部には牽引けんいんのための小さな車輪がついているから陸上でも移動可能、駐輪場に停めておくこともできる。

 もちろん、船舶免許も必要無い。

 初代バヤックを生み出したのは、川をもっと身近に、生活の一部として取り入れたいと願ってやまない佃島育ちのカヤック好きな自転車屋だったらしい。その心意気はメーカーがこぞって量産し、バヤックが手軽な水上ビークルとして世界化された今でもしっかりと息づいている。大川では使われ始めた当初こそ、水上バスや屋形船などの従来河川を利用していた船舶と航路問題などで揉めることも多かったが、水上モデル都市特区として船舶航行の決まりが一から見直された今となっては一応、そうした難点も克服された。

 川岸の全てが切り立った護岸であるこの川では、干満時に生じる水面との高低差を解決する必要もあったが、河川利用者が増えた現在、クリーンな移動機関ということで行政もバヤックの活用を後押ししている。護岸遊歩道へ切り込んで作られた専用スロープ(船を出し入れするための水面へ続く坂)もこの数年で随分増えた。機能面でも交通面でも整備が行き届いているとあっては、川を日常空間へ加えたい人々にとって、これほど願望に沿い得るものも他に無かっただろう。大川の風景にバヤックは欠かせないものとなった。よほどの嵐でもなければ、川面に姿を見ない日は無い。

 そして、新たな移動手段の普及は、新たな地域文化をも生み出した。

 手持ち無沙汰に見えたのだろう、

「保安官も、ボサッと突っ立ってないで! ――はいッ」

 と、押し付けられた引きつなの末端を、帆織ほおりは思わず受け取っている。笑いが漏れ、

「こっちは監視にきてるんだぜ?」

「硬いコト言わないっ!」

「それに、保安官じゃないっていつも言ってるだろ」

 自由漁業者指導員じゆうぎょぎょうしゃしどういんだ、と、お決まりの台詞せりふが口を突いて出てきたが、相手には聞こえなかったはずだ。彼が「保安官」の部分を言い切らないうちに、くるりと背を向けた少女は水中眼鏡をかけなおし、盛大な水飛沫をドブンと上げて川へ飛び込んでしまっている。

 残された帆織は肩をすくめ、綱を握る自分の右手をもう一度見た。それから何気なく、周囲へ視線を移す。一緒に引き綱を握る年少の子供たちの、興奮に輝く目、わくわくした表情、瑞々みずみずしい眩しさに景色がふっと白む気がする。こういうのも悪くはない、と思う。

 左手で額の汗を拭い、キャップとサングラスのずれを直した。今日は特に暑い、

「お前らッ、水分はこまめに取れよ」と子供たちにも注意したが、

「大丈夫だよ!」

「さっき飲んだ!」

「今、言われてもさァ!」

 水を差すなとばかりに言い返される。

「じゃあ後でしっかり取れな」

 やれやれと苦笑し、しかし何となくにやけてしまう帆織だった。

 七月もそろそろ半ば、夏休みをほぼ一週間後に控える大川の午後――。

 土手上どてうえ鬱蒼うっそうとする街路樹からはアブラゼミとクマゼミの混声合唱こんせいがっしょう騒々そうぞうしく響き渡り、だだっ広い川全体を覆っている。日差しは目が痛くなるほど白く、焼き尽くすように辺りへ照りつけて、護岸式の遊歩道に敷き詰められた再生煉瓦さいせいれんがはじりじりと熱い。

 気を利かせたつもりなのだろう、女の子たちの打ち水もあっと言う間に湯気となって、かえって蒸し暑かった。冷房の効いた部屋でアイスキャンディでも齧っている方がよほど楽というもので、だが、この瞬間、少年少女の脳内にそれらが浮かぶ余地は全く無いだろう。

 帆織の前で引き綱を握る子供たちにしても、大粒の汗を浮かべた額の奥底では水面下に展開される袋網ふくろあみ、本流でうねる魚群、海獣のごとく泳ぎまわって獲物を追いたてる上級生の潜影せんえいなどの諸々もろもろが本能の導く想像力によって鮮明に映像化されているにちがいない。

 今、皆がいる佃島北端部つくだじまほくたんぶ分流点ぶんりゅうてんは付近でも断トツの潮通しおどおしをほこる。イワシやサッパが大群をなして集まる、漁にはもってこいのポイントだ。

 江戸時代初期には柔らかな砂の溜まりだったはずのこの場所も、今ではコンクリートですっかり覆われ、大川を鋭く分断している。分かたれた流れのうち下流へ向かって右側は中央大橋、佃大橋、勝鬨かちどき橋へ続く本流であり、最終的には旧築地市場の横手を河口として東京湾へ注ぐ。左へ流れる派川は相生橋あいおいばしを過ぎると朝潮あさしお晴海はるみ豊洲とよすの各運河へ分岐するが、これらもしばらく行けば海とのさかいがつかなくなり、おしまいには海となる。

 山からの滋養じようを豊富に含んだ真水が流れ下って海水と出会い、せめぎ合う河口には大量のプランクトンが湧く。それを食べるためにイワシやイナッ子(ボラの幼魚)などの小魚やエビ、カニなどの甲殻類が集まり、さらにそれを狙って様々な大型魚がやって来る。

 河口域は元来がんらい、生物相の豊かな場所だ。しかし、佃島はそれだけでない。

 上空から周辺地形を見れば、上流からの流れがまともに島へぶつかっている様子が想像できるだろう。島に切り裂かれて分岐した流れは物理的な圧縮と干満の影響を受けて力をつける。そのために付近一帯は潮通しが非常によく、酸素を豊富に含む新鮮な水が絶えず行き来することになる。佃島は汽水域が元来持つ条件と併せ、固有の地形としても豊かな漁場となる条件を備えている。そして実際、豊かな漁場だ。川の隅々に至るまで魚介類が躍動やくどうしている。小魚は舞い、甲殻類はよろいをガチャつかせながら闊歩かっぽする。貝類がひっそり砂中に潜み、流下する有機物を漉し取っている一方で、魚食魚は奸智かんちと肉体の限り獲物を追い回している。そして、それら狙う子供たちがいる。の目を持った子供たちだ。

 大川っ子はバヤックを自由自在に操って広大な水面を縦横無尽に往来する。徒党ととうを組み、そこそこ大規模な漁まで行ってしまう。

 川、と言ってもこの辺りは河口がもうすぐそこ、水の性質は真水ではなく、海水により近い汽水、上げ潮のきつい時には完全に海水と言えるほど塩分の濃くなることも多い。

 この辺りで川にある個々の水の流れを海同様「しお」と呼ぶのも、そんなところから来る慣習なのだろう。だだっ広い川幅いっぱいに海が満ちる場所なのだ。よって獲物はイワシにサッパ、スズキにクロダイ、カレイにアナゴと言ったお馴染みの魚類から大きなものには相当の値が付くエビ類まで、大部分が図鑑で海の項に分類されているものばかりになる。他にもノリや貝類など、春夏秋冬、四季折々、川は様々な恵みをもたらす。

 そして、そんな恵みを余すことなく利用するべく、大川の子供たちは幾通りもの漁法ぎょほうを使い分けている。手網漁てあみりょうや普通の竿釣りは言うに及ばず、ナイロン糸に軽いおもりはりだけの仕掛けを使い、指先で微妙なアタリを捉える一本フカセ釣り、素潜りの突き漁、幾種もの罠漁、浅瀬での投網など、小学校三、四年生ともなれば上手下手こそあれ、漁法は一通り覚えてしまっていると言って良い。中でも今始まっている大掛かりな引き網漁は、潮流ちょうりゅうと魚群の移動方向を読んで指示を出すリーダーの能力、水面を叩いたり、水中で威嚇したりして魚を網へ追いやる「追い子」とバヤックを操って幅広の袋網ふくろあみを広げる「網方」双方の技術や連携、岸からの素早い網引きなど様々な要素が必要となるダイナミックかつ難しい漁法だ。要は簡易の地引き網なのだが、プロのように魚群探知機を使うわけではないから魚を追うのは目と勘が頼りだ。それに子供たちの「漁ゴッコ」はローカルなルールのうちで大目に見てもらっているというだけ、網を引くのは一般の水路であって公式な漁場ではないのだから、他の通航人に迷惑がかからないように操業しなければならない。

 だが、難しいからこそ面白いとも言える。子供たちにひどく人気のある漁だ。大漁の興奮と連帯感の充実が彼らをとりこにしてやまないらしい。

 帆織は目を細め、ぎらつく水面を見やった。少年少女の歓声が響き渡っている。

 バヤックを巧みに操り、流れの上をミズスマシのように滑走しているのは年かさの子供たちだ。時に慎重に、時に大胆に、網を展開する彼らの表情は皆生き生きと輝いて、川の照り返しに少しも負けるところが無い。見ているこちらの生気まで無理矢理引きずり出すような、無遠慮な清々すがすがしさがある。みなぎ生気せいきに満ち溢れている。

 東京を流れる隅田川のうち吾妻橋あづまばしより下流、河口までをさして「大川おおかわ」と呼ぶ。

 荒川、多摩川、江戸川などの主要河川からその他大小の支流、運河までをも含めた俗に言う「東京水系とうきょうすいけい」が環境省や国際水圏すいけん学界により「日本一美しい水辺」と認定されたのはそれほど昔の話ではない。今でこそ最高の水質と最高のテクノロジーが同居する街として世界遺産筆頭候補の呼び声も高い水系と周辺域だが、都主導の下「水上楽園都市」計画が発動して数十年経つまでは、それ以前と同様、御世辞にもきれいとは言い難い水が流れているだけだった。そしてそれは、この大川にしても同様だった。

 江戸から東京へと名が変わってもしばらくの間、湾の沿岸域で有数の漁場であったこの川は、首都の垂れ流す排泄物により、いつしか見るも無残な毒汁どくじる集積流しゅうせきりゅうと成り果てた。

 特に高度成長期以降の一時期は耐性の強い魚介類がなんとかようやく棲める程度の場所とまで環境が悪化した。もちろん、この頃は東京湾奥や多摩川、荒川中・下流域など東京水系のほとんどが同様の状態にあったのだが、入り組んだ水路を多く持つ大川周辺では、人と水辺がごく近かっただけに、ことさら汚染された水が目に付いた。

 場所によっては死んだ水がたっぷりと停滞して黒々と不気味によどみ、目もくらむ悪臭を放つ、そうした光景が当たり前だったのだ――と、郷土史きょうどしにはある。

 下水道の発達や法整備により、二十世紀も残り数年という頃からようやく回復の兆しを見せ始め、新世紀の最初の十数年、そして楽園都市計画が動き出してからしばらく経つ頃には随分と水質も改善して、幾らか、生き物たちも戻ってくるようにはなった。

 しかし今のように「水質日本一」の東京水系の中でも「最高の良好環境」というような称号が与えられることまでは、誰も考えはしなかった。いや、できなかった。

 普段は、だだっ広い川面を滑るように吹き抜けてくる潮風も心地良く、スズキだのハゼだのがそこそこ釣れるほどまでには生態系も回復した様子、ではあった。

 だが、大型船が通ると水底に溜まったヘドロがもうもう浮き上がって流れの色を変え、波飛沫が口に入ればビリビリと舌が痺れ、豪雨の前後には嗚咽おえつを誘うどぶ臭さを撒き散らす、そうした状況を見れば、それから半世紀も経たないうちに、大川へ頭から飛び込んで遊ぶ川ガキどもが夏の風物詩として帰ってくることなど誰が予想できただろう。

 河口から四季折々に上ってくる数々の海の幸。うずを巻いて流れ下る潮を乗り越え、川の中をうねるように進むきらびやかな魚の群れと、その捕獲に打ち興じる人々――。

 それは昔も昔、大昔に失われたはずの光景だった。もう無くなったと老人たちは思っていたし、若い世代はそんな風景がかつて在ったことすら知らなかった。

 しかし、時代は変わる。必ず、大いに変わる。

 新しい東京水系は科学の力によってよみがえった清流せいりゅうである。こと隅田川‐大川水系に関して言えば、人口密集地を貫く地形上の理由から他の河川に増してより特化された浄水技術が導入されており、我が国最新の科学技術によって一から作り直された、とすら言える。上下水道の完全普及、ゲリラ豪雨などによる急激な増水にも対処可能な排水設備における下水・雨水の完全分離は基本中の基本として、末端に至る下水管内常時洗浄システムの構築、超浄水技術の質・量双方における飛躍的向上、物理・化学・生物浄水技術の完全な活用、堆積したヘドロや有害物質の除去技術完成と実践、高効率集光反射板や光ファイバーケーブルによる高架下運河への太陽光照射、大型酸素供給施設の設置……。

 その他様々な分野の最新知見、技術を、環境・観光産業活性化と雇用捻出を目指すこの国と首都は、水源となる首都圏全域をも巻き込んで応用、駆使徹底し、その結果、排水溝や運河から皇居の御堀まで、東京中の水辺という水辺を澄み渡らせることに成功した。

 硫化水素と毒性汚泥どくせいおでいの地獄と化していた巨大下水道網の中にすら、南アルプスの地底湖同様の清純な環境を再現して見せたのだ。そしてついに、モダンな高層ビルやマンションと古くからの下町が混生するいかにもな未来型巨大都市、そのど真ん中に、水中視界平時三十メートル以上、国際水質指標最高クラス、清き水迸る一大河川が生み出された。

 今では、潮のけぶる水面を一度くぐれば、そこには多種多様な生物が織りなす生態系が燦然さんぜんと機能している。川岸のほとんどがコンクリート製の切り立った護岸遊歩道として整備されていることにさえ目をつぶれば、あるいは、有史以前の水圏が舞い戻ってきたかとすら見える。それが今の隅田川、そして大川なのだ。

Ⓒ2016 髙木解緒

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