1 – 6 第一章 ALMOST PARADISE わだつみの宮にさよなら 日本語版

 小魚がはるかに増えた現在では、それらを深追いした海獣類が東京水系の奥まで姿を現すこともそう珍しくない。元々湾内に生息するスナメリやマイルカのたぐいは常連であるし、アザラシやオットセイの迷子も放っておけば勝手に腹を満たし、好きな時に海へ帰る。

 こうした海獣に対して水軍の子供たちは基本、距離を置く。例外は河口近くを縄張りとするスナメリの群れくらいだ。小型鯨類げいるいの一種であるスナメリは、体長が一メートルから二メートル程度、このあたりの個体は成体でも乳白色に近い明るい灰色をしているものが多い。河口近隣の水軍とは友好関係にあるばかりでなく、好奇心旺盛こうきしんおうせいな種としての性質も相まって、各水軍に新しいメンバーが加わる春先にはまるで新入生を歓迎、あるいは部活勧誘の品定めをする上級生のようにふらりと姿を現すし、逆に自分たちに子供が生まれた時はお披露目ひろめに来たりする。成体にも増して好奇心の塊である新生児たちとしばしじゃれあったり、若い個体と最近会得えとくした新しい漁のコツを伝授しあったりする時を心待ちにする水軍メンバーも多い。

 だがそれはあくまで、気心の知れたご近所付き合いの延長だ。はぐれイルカの危険性はよく知られている。何年か前、まだ浄化された大川との付き合い方を皆が模索もさくしていた頃には、水の青さと未知との遭遇に興奮し、飛び込んだ外国人観光客が人々の見ている前でオスのカマイルカから残虐にもてあそばれた挙句レイプされかけ、それが達成できないとなると半死半生はんしはんしょうの目に遭わされた。「イルカを見たら陸に上がれ」は大川の合言葉だ。人間同様、親し気な表情の裏にとんでもない狂暴性を秘めたサイコパスもいるのがイルカなのだ。

 だから大川に配属されて最初の緊急出動がイルカ絡みと知った時、帆織ほおりは緊張せずにいられなかった。イルカが一頭、昨日から入り込んでいることは彼の事務所でも把握していたが、新たな通報ではそれに近づこうとしている子供たちがいるというのだ。

 まだ四月で水は冷たい。

 通報のあった佃大橋のたもとへ急行すると、騒ぐ子供たちの中で厚手のウェットスーツを着込んだ少年と少女が二人、川から上がったばかりらしく、髪から水をたらし、風に歯を鳴らし、鼻水をたらしながら腕組みして考え込んでいた。

「とにかく、しっかり頭を拭きなさい」

 帆織は濡れた二人によく乾いたバスタオルを渡し、お説教を始めようとしたが、

「あのイルカ、ケガしてんだ」

「口に引っかかったルアーに太めの糸がまだだいぶ残ってて、それがふんに巻き付いてるの。なんで今頃あんな太い糸使うかな? アイツ、あのままだと餌が獲れずに死んじゃう」

「でも触らせてくれねぇんだよ。あのバカ、こっちをめちゃくちゃ警戒してやがる」

「あれはマイルカだよ。警戒心がとても強い種類なんだよ!」

 子供たちは帆織へ口をきく暇を与えず、最後に海獣博士かいじゅはかせとあだ名されているちびっこが叫んだ。

 結局、翌日の干潮時かんちょうじに浅瀬へ仕掛けた漁網ぎょもうへ追い込み、ナイロン糸のいましめを解く段取りとなった。

 帆織は監督係として現場に残された。翌日には追い子の一人になる予定だった。

 子供たちがバヤックを操ったり、交代で潜ったりしながら水底へ突き刺した竹杭で枠を作り、それへ漁網を取り付ける様子を水際に立って眺めていると、

「新しい指導員さんですよね。なにしてるんですか、あれ?」

 声に振り向けば、これも初めて見る少女が立っていた。

 おや、と思わせる澄んだ気配を漂わせているものの、近所の中学校の制服を着た彼女に帆織は気やすい調子で、

「あのイルカ、だいぶ弱ってるらしい。口に釣り針が引っ掛かって、吻に糸が巻き付いてるんだと。明日の引き潮にあの網へ追い込んで、取ってやろうって計画さ」

 そう言って、彼は再び川面かわもへ目をやった。

 後ろでがさごそと音がしていたから、少女もしばらく見物を決め込むことにしたのだろうと思った帆織は、ふと隣に立った彼女を見て驚いた。黒い長袖とレギンスタイプのラッシュガード姿に早変わりし、いそいそと自分の体表を強くこすっている。皮下脂肪とて、まだ、それほどあるようにも見えず、

「おい、君……」

「あ、これですか? 制服の下に着てるんです。黒タイツOKだから先生にばれづらいし」

「いや、そういうことじゃなくて。それで水に入るつもりか? 夏物だろ?」

「そうですよ?」

 言うなり彼女は飛び込んだ。その頭が水面へ浮かぶ頃には水軍のメンバーも岸辺こちらの異変に気付いたらしい。皆、手を止めてこちらの二人を、正確には少女を凝視している。

「トヨミだ」「トヨミが来た」と、幾人かささやき合うのが帆織にも聞こえた。

「やっぱりちょっと冷たいです!」

 こちらを振り返った少女、トヨミは立ち泳ぎで笑いながら手を振って見せる。

「待て!」

 背を向ける彼女を帆織は呼び止めた。この子なら、という気持ちで、

「こいつを使え!」

 先端がニッパーになっているマルチツールを投げる。釣り針が深く刺さっていれば、ちまちま糸を解くよりも針ごと絡まりを切断した方が生体へのダメージが少ない。ツールを器用に受け取った少女は帆織としっかり目を合わせ、にやり、と笑ったように見えた。

「火を焚いておくよ!」

「お願いします!」

 澄んだ雰囲気が川水かわみずの色によく似合っていた。彼女は大きく息を吸い、深く潜航した。

 Ⓒ2016 髙木解緒

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