1 – 10 第一章 ALMOST PARADISE わだつみの宮にさよなら 日本語版

「夜、川へ潜る時に気を付けること……?」

 アナジャコの巣穴を広げる手をぴたりと止め、こちらを凝視ぎょうししたコハダだったが、

「ダメよ! 絶対に、ダメ!」

 転瞬てんしゅん、跳びつくように食って掛かった少女に帆織ほおり戸惑とまどう。

「何考えてんの、保安官! あなた、保安官でしょッ?」

「だから、自由漁業者指導員だって……」

 相手の剣幕に、つい、話を逸らすような言い方をしてしまう。

 彼は川面かわもへ目をやった。最大干潮で潮が止まった水面すいめんは、干潟ひがたに降り立って眺めると満潮の時より一層ギラギラして見えた。焼け付く日差しは肌を刺し、磯臭いそくさが鼻につく。

 大川の本流から相生橋あいおいばし方向へ折れ、橋をくぐってさらに先にある水門へ入ると、朝汐運河あさしおうんがと呼ばれる細い水路がある。船道ふなみちとして掘られた流れの中心を除けばごく浅い水路で、特に総合高校の校舎うらには大潮の干潮時ともなると、それなりの広さを持つ干潟が現れる。   

 水路の中にありながら広々したこの干潟ではアサリなど貝類も取れるが、それ以上にアナジャコ釣りの名所めいしょとして水軍の子供たちに人気だ。この日も午後の河川巡回で帆織が通りかかると、ちょうど、コハダたち佃水軍の主要メンバーが鉢巻はちまきのように頭へ巻いたタオルに古いふでを何本も挿して、バケツ片手に地底の住人と格闘しているところだった。

「コハダ、うるさい」

 かたわらで、今まさにアナジャコ釣りの佳境かきょうを迎えているツバスが声を押し殺し、じりじりした口ぶりで言った。

「シャコが逃げるだろ」

「だって、保安官が……変なこと言うんだもん」

 弁解しかけたコハダも最後のところは声を落とす。慎重な面持ちになる。

 見れば、しゃがみこんだツバスの足元で、巣穴の入り口へ穂先から差し込んだ毛筆もうひつがそろそろと押し上げられ始めていた。ここで警戒されてしまえば、また最初からやり直しになるのだ。

 アナジャコは、シャコと名は付いているものの、寿司ネタなどで御馴染みのシャコとは別種の甲殻類である。全長は一〇センチ程度、ザリガニに丸みをつけ、上品に仕立てたような外見をしている。赤みがかった茶褐色や、くすんだ灰色の個体が多い。日本各地の干潟に、出入り口が二つある、全体的にY字形をした深い巣穴を掘って暮らしている。

 この甲殻類、しっかりと泥抜きしてから爪と腹側の脚を取り、みそ汁の具にしたり、揚げ物にすると独特の滋味じみが感じられて実にうまい。九州有明辺りでは名物料理だが、この大川でも水がきれいになってから食べる人、好きな人が増えた。今回も聞いてみれば地元の老人ホームから出汁だし用にと注文を受けての漁なのだと言う。

「特に意味のある質問じゃないんだ……なんとなく思っただけさ」

 ツバスの足元を注視しながら帆織はコハダへささやいた。

「ほら、夜行性の生き物を観察するには夜、観察するのがやっぱり一番だと思うだろ? この間のクルマエビの話じゃないけどさ」

「夜の川は危ないの」

 コハダも声を潜め、しかし厳しい調子で囁き返す。

「水軍はもちろん、そうでない子も、ここらへんの子は基本的に夜の川に出ない、って決まりを守ってるでしょ。夕暮れ前には絶対バヤックを陸上りくあげする。川に近づかないし、夜っぴて罠を仕掛けとくこともない。フィンズの連中は夜罠を仕掛けるらしいけど、あれは元々、ルールを無視することが結成の動機みたいな悪党連中だからね」

 そこへ大人が悪い手本見せてどうすんの、と指摘されれば、帆織には返す言葉も無い。

 と、再びツバスがぎろりとこちらをねめつけたので、二人は慌てて口を閉ざした。彼の足元では深く差しこまれていたはずの筆のが独りでに高々と押し上げられて、いよいよ、穂先の付け根まで見え始めている。ここからが肝心だ。

 アナジャコは深い巣穴に隠れ住み、泥中でいちゅうの微生物を食べて暮らす大人しい生き物だが、巣穴への侵入者には厳しく対処する。アナジャコ釣りはその習性を利用した古くからの漁法だ。

 使い古しや安物の毛筆を穂先からアナジャコの巣穴に差し込んでおくと、アナジャコは筆先を縄張りを荒らす侵入者とみなし押し出しにかかる。その様子はのんびりした見た目とは裏腹に非常に攻撃的で積極的だ。筆先を鋏状はさみじょうの前足で掴み、ぐいぐい巣穴の外へ筆を押し上げる。ついには入り口まで筆を押し上げ、仕上げに侵入者を放り出そうとする。そこを巧く捕まえるのだ。アナジャコの巣はとても深いため、干潟を掘って掴まえるのは効率が悪い。専門の漁師は大掛かりなポンプ一式を使うが、水軍の気軽な漁には少し重装備が過ぎる。ハンティングの醍醐味も味わえる筆漁がやはり一番やりやすく、面白い。

 筆先につられてアナジャコが穴の口まで到達したのを見計らい、ツバスが手を泥の中へ突っ込む。よし、と頷いたのは指先がアナジャコを捉えた証拠だ。鋏だけをつかむと自切じせつされて逃げられるので、指先の感覚を頼りに素早く本体を捕まえるのがコツである。ズボッ、と音がした次の瞬間、良いサイズのアナジャコが砂泥さでい混じりの水をしたたらせながら彼の手の中にある。

 獲物がバケツへ放り込まれるのを見届け、帆織とコハダもホッと一息ついた。

「だけど、大人は夜でも出てるじゃないか」

 帆織が食い下がって会話を再開する。まだ言うか、と見上げた瞳に睨まれたが、

「ルアーを使ったスズキの夜釣りなんか相当流行ってるって聞くぞ?」

 大人らしくないしつこさだな、と我ながら思う帆織である。

 調査計画のリサーチとして役立つことがあればという思惑もあるにはあったが、どちらかと言えば話の流れで軽々しく夜間潜水の話題を振った数分前の自分が少し、恨めしく思われなくもない。今朝方けさがた、事務所で調査計画の資料を読んで以降、ジャック事件についてずっと思いをめぐらせているからかもしれない。そういえば、あの夜もコハダはメールで警告していた。

「ほんとはあれもやめさせるべきなの。保安官にもっと力があるならね」

「厳しいこと言うなぁ」

「私が、ううん、ここの子供が厳しいわけじゃないよ」

 自分の狙う巣穴の入り口が見えやすいよう、砂を掻き広げる作業を再開したコハダが言った。

「大人は鈍感なんだよ。すり減って鈍くなってる。あるいはフィンズ。あのメンバーには内陸からの移住者の家の子が多いの、知ってる? あの子たちが夜の大川へ平気で関わろうとするのは多分それが原因じゃないか、って私は思ってる。やっぱり鈍感なのね」

「鈍感? ……何に」

 少女は腕を組み、眉間みけんにしわを寄せる。言葉を探し、

「気持ち悪さ……かな?」

「――気持ち悪さ?」

「実際は、協定の理由づけみたいなもんさ」

 背後から声をかけたのはカジメだ。話を聞いていたのだろう。二人が振り返ると、 

「いくら川がきれいになって、資源がどっさり戻ってきたと言ったって、りつづければまたどうなるか分からねぇ。それは今日び、子供だって分かる。いやよ、漁が財布に直結する分、水軍の子供らの方が資源管理を考えてンだよ、保安官」

 それはそうだろう、と帆織も思う。子供たちの漁は規模でこそ専業漁師に比べて可愛らしいものだが、さい穿うがつ目の鋭さと欲望への素直さではよほど大人たちにまさっている。資源管理は重要な課題だ。

「だからこそ大川の水軍同士には、最も魚が油断しやすい夜、川で漁をしないっていう協定があるんだ。夜は他の生き物たちの時間。漁は夜明け後から日没前までとする、ってな。だけど、管理漁法かんりぎょほうだなんだって小難しい理屈をはなっから理解しようとしねえ馬鹿もいないわけじゃない。小さい連中はましてそうさ。でもよ、なんとなく危ない、不気味で怖いものなんだってことにしとけば、チビ共もそういうもんかなと思うじゃねえか」

 カジメの釣り方は筆をほとんど使わない。最初の一匹だけ筆を使って、あとは捕まえたアナジャコをおとりにするのだ。

 逃亡防止にひも付きの洗濯ばさみを囮のアナジャコの尻尾へ付け、狙いの巣穴に頭から差し込んでおく。巣穴の主が囮へ攻撃を始めたところを見計らい、ゆっくりと引き抜く。

 筆が囮に変わっただけだが、筆を使うよりもずっと警戒させないで捕まえられるというのがカジメの持論だ。言うだけあって、彼はひどく無造作にひょいひょい釣り上げながら話をしている。資源管理の必要性を確かに感じさせる腕前うでまえだった。

「まあ、トヨミみてえに皆での決め事なんか屁とも思わねえで夜の川へ出る魔女っもいれば、今コハダが言ったみてぇに、フィンズなんかはけ置きのはえ縄やってるって噂だけどよ」

「エビとかスズキとか大雨の後のウナギとか、夜の方がよく獲れるに決まってるしなぁ」

 少し離れたところで再び筆を仕掛けているツバスも同意の声を上げたが、

「つまんない噂、保安官に吹き込まないでよ。それにカジメの意見、ぜんッぜん、違うッ」

 コハダが勢いよく首を横に振る。

「夜の川はほんとに危ないの! カジメ、あんたこの間のカメラ、全然反省してないでしょッ?」

漁労長ぎょろうちょうさんの御指示ごしじだからな。泣く泣く、ちゃんとやめたぜ」

「あんたねェ……」

「何が危ないってんだい? そりゃ、夜の水辺が危険なことくらいは俺だって分かるし、むしろ夜遊びは絶対にやめてほしい。だがコハダ、君の言い方じゃ……」

「そういう危険」じゃないみたいに聞こえる、という帆織の言葉に、少女は顔をしかめた。

「カジメは夜の大川へ直接出向でむくって言ってるわけじゃないだろう? 遠隔操作型のカメラを使った録画さえダメ、ってのはどういうわけだ?」

 コハダはうなり、

「……私、話したくないんだよね。絶対バカにする奴がいるから」

「お前は迷信深いからな。元々怖がりだし、変なところでビビりなんだ」

 笑い声を上げたツバスの顔を泥の塊が襲った。コハダが咄嗟とっさに掴んで投げつけたのだ。

 罵声ばせいを上げながら波打ち際へ走る幼馴染みへ鼻を鳴らし、

「でもいいや。保安官なら、真面目まじめに最後まで聞いてくれると思うし」

 確かめるような、いどむような目つきを向けられて帆織は頷く。

 立ち上がって腰を伸ばしながら、小学四年生の頃の話だけど、とコハダは前置きした。

Ⓒ2016 髙木解緒

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