1 – 11 第一章 ALMOST PARADISE わだつみの宮にさよなら 日本語版

「夏休み入ってすぐよ。本物のバヤックレースが見てみたくて、その頃うちに居候いそうろうしてた叔父さんに有明のレース場へ連れて行ってもらったの」

「お台場の、バヤック競艇きょうてい?」

 帆織の問いに彼女はコクンと頷く。

「うちの親はそういうの嫌いだから、内緒でね。それで叔父さん、大穴当てたんだ」

 それまでもっぱら競馬に傾倒していたコハダの若き叔父は、自身初めてとなるバヤック競艇で超弩級ちょうどきゅうの大戦果に狂喜乱舞だったのだそうだ。コハダは思い出し笑いしながら、

「私が組み合わせ決めてさ、これがドンぴしゃ三連単! 記録に残る穴も穴!」

「有明の三連か、すげぇ!」

 カジメが叫ぶ。

「お前、天才だろッ?」

「私だって初めてだったから、単にレース前の周回しゅうかい見て、さそうなの選んだだけよ?」

「でもよ、なんかコツとかさ」

「そうだな、ポイントはレーサーの肌の――」

「待ってくれ」帆織が制し、

「コハダ、俺が聴きたいのは、その先の話だ」

「オーライ、わかってるって保安官。あせんないでよ」 

「あとカジメ、未成年の賭博とばくは違法だからな」

「足の悪いじいちゃんの付添つきそいでたまに覗いてるだけさ」

 ほんと固いナァ、とカジメは小馬鹿にした口調でうそぶき、

「それでどうなったんだよ、コハダ。その、大穴当てた後の叔父さんとお前の話な」

「私は叔父さんにとって、幸運の女神、ってことになったの」

 コハダは少しおどけて胸を張った。感謝感激雨あられ、彼女の叔父は普段からしてかなり、この姪っ子に甘かったが、この日はそれが一層だったらしい。気が大きくなり過ぎたものか、

「まずは、いい焼肉屋さんに行ってたらふく、食べさせてもらった。そのあとは銀座まで足を延ばして、文房具や本をこまごま買ってもらって、最後に買ってもらったのが――」

「あの顕微鏡だ」

 顔を拭き拭き戻ってきたツバスの台詞せりふに、コハダがにんまり、いわく有り気に微笑む。悪戯いたずらっぽく目配せしたりする。

「研究者が使う本格的なやつさ。その頃はこいつの家に行くたびに自慢されたもんだ」

「保安官ならきっと知ってると思うな。国内メーカー製で見た目はシンプルな普通の双眼実体顕微鏡そうがんじったいけんびきょうなんだけど、ディスプレイ接続のデジタルズームで拡大倍率を千倍まであげられる機種。もちろん超高解像カメラも付いてて、試料台には高輝度バックライト付き!」

「子どもには過ぎたおもちゃさ、保安官」

「よく言う、あんただって使ってるじゃない! 去年の自由研究で地区優秀賞取れたの、誰のおかげ? そういやパフェおごる約束もまだ――わかってるって、保安官!」

 コハダに先手を打たれ、帆織は開きかけた口を苦笑いに変えた。

「じゃあ、よろしく」

「まあ、すぐばれて、叔父さんはお父さんにこっぴどく叱られちゃって、危うくうちから追い出されるところだったんだけど、私には最高の一日だったな。少し注意はされたけど、ちゃんとした顕微鏡ずっと欲しかったから。今年の自由研究はもらったぜ、って思ってた」

「あれ? でも、小四の時って言えば……」とツバス。

「お前の自由研究、セミのがら標本じゃなかったっけ?」

「よく覚えてるなぁ! ファンなの? ストーカーみたい!」

「夏休みの最終日に、人を街中まちじゅう連れまわして抜け殻探しさせたの誰だよ!」

「誰だっけ?」

「お前なぁ――」

「その顕微鏡に絡んでくる何かがあって、コハダは不本意ながら自由研究のテーマを変えざるを得なかったってことだろ? 何があったんだ?」

「やっぱり保安官、鋭いわね。こいつなんかずっと一緒にいたのに、愚痴言うばっかりでさ、こっちの変化に全然気づかなかったもん。気配りが足りないよね」

「抜け殻探しに付き合ってくれただけでもありがたいさ」

「そうかしら?」

「そうだろ!」

 ツバスの叫びを無視し、それはともかく――、とコハダの声の調子が変わる。

「保安官の御指摘ごしてき通り、最初は顕微鏡をフルに使いまくった自由研究をするつもりだったんだ。せっかく買ってもらったのに、そうしないなんて馬鹿よ」

「何をしようとしたんだ?」

「大川で観察される動物プランクトンの分類リスト作り」

「そりゃまた……対象が膨大だな」

「怖いもの知らずだったの」

 にやり笑って肩をすくめる少女を見て、帆織も「なるほど」と微笑みかえした。

「それで、夜の大川が関わってくるわけだ」

 神妙な面持ちで頷くコハダ。

 プランクトンの多くはせい光走性ひかりそうせい、つまり明りに引き寄せられる習性を持つ。都市の照明が漁火いさりびのように川面かわもを照らす大川でその習性を利用しない手はない。また、昼は水底付近にいる種類が夕暮れ以降に浮上して来ることも多いので、多様性に富んだプランクトン集めには夜間採集が欠かせない。その頃のコハダはもちろん、それを知っていた。

「でも、夜の大川に子供は近づいちゃいけない、とも知ってたしさ」

「大人と一緒に行けば、どうなんだ?」

「その頃の私もそう思った。大人と一緒なら多少は大丈夫だろうって。大人は夜釣りとかしても平気なんだし。だから、採集には叔父さんについて来てもらったの」

 最大満潮の潮止まり、丁度ちょうどこの辺りだよ、と少女は広い川面を眺め渡す。

 昼間、こうして見る川に陰気な気配は微塵みじんもない。広々する干潟の隙を縫うように、しかしなみなみ、とうとうと平和に流れている。子供が遊び、大人が行来している。

「まあ、大学生だった叔父さんが大人と言い切れるかどうかは微妙だったけどさ」

 兄と兄嫁から散々にお説教を喰らい、それまでの食費やら生活費やらを徴収ちょうしゅうされてコハダの叔父は陰鬱いんうつな様子だったが、姪の学習に貢献する理知的な叔父という建前たてまえもあり、渋々ながらコハダのフィールドワークに付き合ってくれたらしい。プランクトン採集は網目の細かい専用ネットを水中で引いて行う。バヤックを出して引き網漁みたいにすればいいとコハダの叔父は提案したのだが、

「さすがに、それはやめたのよ」

 その場合は彼女の叔父にバヤックを漕いでもらい、荷台へ乗ったコハダが後ろ向きにネットを操ることになっただろう。だが、

「……何か、嫌な感じがしたから」

「嫌な感じ?」

「叔父さんの腰にしがみ付けば、私の背中がノーガードでしょ? 後に何かいたら困る。でも逆に、叔父さんと背中合わせに乗ったら、私だけ、何か見ちゃいそうじゃない」

 くぐもった笑い声を立てたツバスのすねをビーチシューズの爪先が蹴り上げた。シューズの主は無論コハダだ。涙目になって呻く少年を帆織はちらと見やり、

「……それで?」

 結局、コハダと叔父は護岸ごがんの遊歩道から採集することにしたのだそうだ。長いロープの先に繋いだ専用ネットを流芯りゅうしん目掛けて投擲とうてきし、二人でロープを引く。超小型の地引き網だ。

「採集自体はうまく行ったの」

 コハダが言った。

「網を引き上げたら、明らかに生き物っぽい粒々がいっぱい底の方にまってて、夜光虫みたいなのもぽちぽち光ってたりしててさ」

 二人はロープの先をバケツに付け変えて川水を汲み上げた。持参したガラス製の大きな広口瓶ひろくちびんにその水をたっぷり注ぎ込み、裏返しにしたネットをその中へ突っ込んで捕獲した大群衆を移し替え、蓋をしっかり閉めた。

「その日は、それでおしまい」

 水を満たした瓶や濡れた荷物を叔父に持たせ、コハダは意気揚々いきようようと家へ帰ったものだ。

「なぁんだ、夜の大川が怖いって言っても、こんなもんかな、って」

 今のコハダは遠い目つきで、ふっと微笑む。

「帰ったらちょうど晩御飯のできたところでさ、私は叔父さんから受け取った瓶を自分の部屋の机の上に置いて、それっきり」

 母親得意の唐揚げを叔父や父と奪い合うようにしてむさぼり食い、満腹の腹をさすりながら叔父とテレビゲームをやり、居間で少し宿題の残りをやり、母と刑事ドラマを見てから風呂に入り、髪を乾かしながら今度はバラエティ番組を見、いざ就寝、となって自室へ戻るまで、

「瓶のことは忘れてた。どっちにしろ、詳しい観察は次の日から始めるつもりだったし」

 ベッドに入ったコハダは瞬くうちに眠りに落ちる。そして真夜中頃、ふと、目が覚めた。

「音が、聞こえた気がしたの」

「音?」

「トトンッ、って。お祭りの御囃子おはやしの始まりに、小太鼓が少しだけ鳴った感じ」

 目を見開いた彼女はしばしぼんやりとし、それから、照明を全て落としたはずの室内が妙に薄明るいことに気が付いた。そして同時に、光源が机上きじょうにあることにも気が付いた。

「私の部屋、ベッドから勉強机の上が見える配置になってるんだ」

 コハダは簡単な自室の間取りを砂地へ指先でなぞって見せる。

「で、よく見るまでも無く机の上で大きな塊がぼーっと光ってるのが見えたのね。ベッドから出た私はゆっくり机に近づいた。その時にはもう、プランクトンを入れた瓶が光ってるんだ、ってわかってた。あと、ちょっと、うるさかった」

 耳を澄ますまでも無い。最初に聞こえた気がした音は、鼓動より少し大きい程度ながら、既に一定のリズムとなってコハダの耳へ届いていた。

「おもちゃ屋さんの小っちゃい子向けコーナーにさ、ウサギとかサルのぬいぐるみが太鼓を叩くおもちゃあるじゃない? あのボリュームを下げて、もうちょっと軽く上品にした感じの音なの。トントントトントントトン――」

 コハダは記憶を探って口ずさむ。

 彼女がばちを振る仕草をして見せた時、帆織は、自分の全身がくまなくざわめくのを感じていた。それは単なる血流の増加か、それとも……悪寒に似ていたかもしれない。

 間近まぢかに立ち、改めて瓶を見たコハダは眼前がんぜんの光景へ一瞬にして魅入られた。

 夜光虫やウミホタルなど発光微生物が光っているのかと思ったが、そうではなかった。水だった。水そのものが青白く輝いていた。ささやくような輝きは、ぬるぬると粘度を上げてガラスの内側を流動する。

 そしてその中で、

「みんながね、躍ってるの」

「みんな?」

「プランクトンたちよ。輪になって、踊ってるの!」

 その時の興奮を段々と思い出して来たのか、コハダの口調も上ずっている。

 極微ごくびに息づく有象無象うぞうむぞう、カイアシ類は立ち泳ぎしながらふさふさ毛の生える長い触角を振り回し、遊泳性介形虫かいけいちゅうんだりねたり、珪藻けいそうやべん毛藻もうそうはくるりくるりと大回り、放散虫ほうさんちゅうのトゲトゲ、カニ幼生ようせいのカクカク、ゴカイ幼生のニュルニュル、果てはただ一点にとどまっていつまでも振動し続ける各種の魚卵ぎょらんに至るまで、確かに全てが踊っていた。軽妙な小太鼓のリズムに合わせ、盆踊りのように大きな円陣を組んで踊っていた。それはそれは嬉しげに、楽しげに、響き渡る水の旋律せんりつを全身でめいっぱい味わっていた。

 トントントトントントトン、トントントトントントトン――。

 ツバスがあきれ声で、

「顕微鏡で見るようなプランクトンたちが肉眼で見えたってのかよ? ありえないだろ」

「見えたんだから、しょうがないじゃない!」

 見惚みとれていたのはほんの数秒だったか、それともかなり長い間だったか、いずれにせよ彼女はいつの間にか、微生物たちの輪の中で一緒になって踊りまわる自分を感じていた。

 ただでさえ小さい彼女の体はどんどんどんどん小さくなって、体全体に水の表面張力がひしひしと感じられた。押し込められながら引っ張られるようで、だがそれは不快な感触ではない。太鼓のリズムに呼応し、呼び覚まされた原始の旋律が体の内からあふれ出してくる。原初の海。生命の源。濃縮され、ガラス瓶に詰め込まれた命のざわめき。きっかけの稲妻がスパークする。髪の毛を愉快にたなびかせ、でたらめな阿波踊りか何かのように手足を動かして彼女は踊る。体を揺する。くねる。笑って踊って、踊って笑って、

「トントントトントントトン、トントントトントントトン――」

 そして彼女は唐突に気付いた。

 総身そうみの毛が逆立って一気に引き戻された。彼女は瓶の外にいた。だが、瓶の中にもいる気もした。深い海の水圧が四方八方からきゅうきゅうと体を押す。耳鳴りがする。瓶の水は光ってなどいない。暗く暗く、海溝の深淵しんえんめいて暗く――。

 気が付けば毛穴や汗腺かんせん、体中の穴という穴から臭いの分子が引きずり出され、闇の中へ拡散していた。ぞっとした。こらえてもどうしようもない。止めたくても止まらない。深海で少女の体臭は濃すぎるのだ。柔肌に厚くまとった臭いの粘液は、ほんのりと青白く闇に輝く。彼女は悪目立わるめだちしている。ざわめいて目立ち過ぎている。だから、やはり、

「誰か、見てた」

 誰か私を見ていたの――、とコハダは繰り返した。

「私が瓶の中にいるプランクトンたちを見ていたように、誰か、外側から私を見ていた。私を包む世界というガラス瓶の外側に誰かいて、暗い部屋の中でひとりのんきに、もっと小さな世界にくぎ付けになっている私をじっと見てた。瓶の中で踊る私を眺めてた。それからね、私、自分がパジャマしか着てないことにも気付いたんだ」

 ライフジャケットは、着ているはずも無かった。

「知らないうちに私の体はすごく疲れちゃってた。夢中で踊ってたから」

 今、潮の流れに飲み込まれても、浮かび上がれる保証はない――。

「そしたら、私が気付いたことに相手も気づいたらしいんだ。暗がりの中で、誰かが笑う気配がしたの。声を出すんじゃなくて、きゅーっと、口のはしを吊り上げる笑い」

 小さき者へのあざけり、無力な気付きへの嘲笑ちょうしょう

 空間へ浮かびゆく無数の泡に、いやらしいそいつの笑顔が映るようだった。

 コハダは確信した。視線の悪意を。罠だ。これは罠だ。

「瓶に覆いをかけて、布団に潜り込むのが精いっぱいだった」

 それでも彼女はまだ自分が暗い水中にいる気がして、息を止めたままでいた。呼吸することができなかった。我慢して我慢して、だが少しづつ口から息が漏れ出して……。コポ、コポコポ……、体中の力が抜けて、

「もうだめだって、思った」

 気が付けば朝になっていた。彼女は黙って起き上がり、何事も無かったかのように澄んだ水をたたえるガラス瓶を、そっと持ち上げて自室を出た。便所へ行き、下水に中身なかみを流した。ガラス瓶は玄関外にある水道口で洗い、そのままリサイクルに出した。

「だからさ、やっぱり私、夜の大川ってくないと思う。危ないと思うんだ」

 コハダは真剣な顔で話を結んだ。

「それからは私、昼の川だって気を許したことないんだよ?」

 でけぇ、といつのにか話の輪を離れて漁に戻っていたカジメが興奮した声を上げた。十五センチはあるアナジャコが囮をがっちりホールドした状態で穴から引きずり出される。歓声を上げてそちらへ走り寄っていくツバスを一瞬ちらと見やり、しかしコハダはすぐさまこちらへ視線を戻した。

「あの視線がなんだったのかは分からない。でも、つながっちゃいけないものだってことは、はっきりと分かったんだ。……だから保安官、私は」

 帆織を見据みすえる彼女の両目は確信と警告に満ちている。

「夜の川を、おすすめしない」

© 2016 髙木解緒

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。