1 – 12 第一章 ALMOST PARADISE わだつみの宮にさよなら 日本語版

「タブー、ってやつかなぁ。東京のど真ん中にもあるんだね」

絶海ぜっかいの孤島とか山奥の寒村かんそんとかのイメージだよな。名探偵でも来そうなさ」

 つい先日、帆織ほおりの部屋でそんな内容の古いドラマを一緒に見たばかりだ。真奈まなも覚えていたのだろう、うんうんと微笑む。

「そういうのって、子供がいちから考え出すのかな?」

潤地うるちさんが言うには、当たり前にある自然発生なんだってさ。こんな特別な環境で俗信が出てこない方がむしろおかしいって」

「……確かに特別だよねェ」

 しみじみと彼女が言う。

 帆織は慣れているのでそれほどとは思わないが、世界有数の未来型巨大都市、そのド真ん中で漁遊りょうあそびにきょうじるかわガキという構図は客観的に見れば、やはり特殊な部類に入るだろう。

「先輩も大変だよね。今日は、他には?」

「すぐ後で喧嘩が一件。例の不良娘とフィンズの連中がクソ暑い中で取っ組み合いだ」

「なんでまた?」

「前に子供らの一部がキャシャロット・ガンってのを作った話はしたよな?」

「キャシャロット……ああ、マッコウクジラの採餌法さいじほうを真似した水中銃ね。音響護身具おんきょうごしんぐと指向性防水スピーカーの組み合わせで、衝撃波を撃って魚を気絶させるやつ」

「そうだ。だけど、あれは禁止になったんだ。うちの管轄かんかつには音に敏感なスナメリがいるし、他の生物環境にも悪影響がある可能性が高い。何より人に怪我させるかもしれないしな。ところがフィンズはこの規則を破ってた。それどころかキャシャロット・バズーカを作って障害物の影にいるスズキを群れごと仕留めてたんだ。そこへトヨミが現れた。水中でバズーカを奪い、衝撃波の射出部を護岸ごがん壁面へきめんへ押し付けて撃った。当然バズーカはぶっ壊れた」

「トヨミちゃん、悪くないじゃん」

あとが悪い。上陸して、フィンズの男子三人をぼこぼこにして、駆けつけた俺の顔を見るなり弁解べんかいもしないでまた逃げた。だいたい、あいつなら三人を痛めつけないで去ることもできたはずなんだ。結局、おのれの暴力衝動しょうどうを正当に行使できるチャンスを利用しただけと見られても仕方がない。魔女だなんだの周りから言われるように自分で仕向けてるんだ」

 ほんと、悪ガキばっかりだ、とうんざりした調子で肩をすくめた帆織へ、

「教職課程なんか取ってなかったのにね。子供の相手ばっかりで、学校の先生みたい」

 お疲れ様です、と真奈は冗談めかして頭を下げ、アイスティーに口をつけた。

「でも先輩、だいぶ元気になったよ」

「そうか? むしろ疲れっぱなしの毎日だけどな」

 意味有り気に微笑んだ真奈が今度はチーズケーキにとりかかる。垂れがちの目を爛々らんらんと輝かせ、一口一口をじっくり味わうその様子を眺めているだけで、帆織のほおは自然と緩んだ。

 婚約者を「先輩」と呼ぶのは学生時分から続く彼女の癖だ。籍を入れ、同居が始まれば他の呼び方を用意してはいるそうだが、楽しみな一方いっぽう、あまりあてにはならない。還暦を過ぎてもまだ先輩呼ばわりかも知れない。

 帆織もアイスコーヒーを一口飲んだ。鼻から抜ける香りのうちに、日頃の喧騒けんそうから解放された自分を感じる。

 真奈は彼が学生時代に所属していた研究室の後輩であり、博士課程を修めた後、ひとつ別の大学での職を挟みはしたものの、今は助手として再び母校で働いている。

 二人の出た国立こくりつ国際こくさい海洋科学技術大学かいようかがくぎじゅつだいがくの校舎自体、帆織の出張所がある佃島つくだじまから月島つきしまへ抜け、相生橋あいおいばしを渡ってすぐにあるから、そもそも自分の移動先が大川に決まった時点で色々近場にまとまってきたなと感じてはいた。それが今回の夜間調査計画で、世間が一層せばまった気がする。

 もっとも、会いたい時に会えるのはありがたい。調査手順の打ち合わせを終えた二人が一緒に校舎を出たのは充分過ぎる必然だ。それまで冷房の効いた研究室で御茶をすすっていたはずなのに、校舎を出てすぐ、二人同時に喫茶店での休憩を提案したのには、お互い、声を出して笑い合った。

 月島の駅近くにあるこの店は二人の行きつけだった。甘いものの味もさることながら、なんと言っても雰囲気が良い。店内は静かで、年輪を容易に数えられるほど磨き込まれた木製テーブルの数々が薄暗い照明に黒光りするさまは亜寒帯の奥深い森を想わせる。

「もう少し涼しくなったら、バヤックでツーリングに行かないか。もちろん俺が漕ぐ」

「いいね。でも、私も漕ぎたい!」

 その後に訪れるちょっとしたが、帆織にはなんとなくもどかしい。

 それは相手も同じようだ。先ほどから面と向かって話をする時は普段通り軽口を叩くくせに、何かの拍子ひょうしに目が合うとはにかんで、顔を伏せたりする。

 帆織の急な配置換えを理由に結婚が延期された時には双方の友人からだいぶ心配されたものだが、婚約そのものは至って健全、有効であり、彼が今の職場に慣れて、一区切り付けばすぐにでもと約束ができている。そうなってみると今の状況は、学生時代がそのまま延長されたかのようだ。

 お互い気心が知れるどころか、むほど知り尽くしているはずなのに、どことなく初々ういういしく、気恥ずかしい。リブートとでも言おうか、新鮮と親愛が同時にある。帆織の感じる不思議な刺激を、おそらく真奈も同様に感じているに違いなかった。

 この店のチーズケーキは彼女のお気に入りで、嬉々ききとして食べるこの顔を帆織はここ何年か、ずっと見ている。

 ゆるやかに巻きのかかった、亜麻色のセミロングがよく映えるおっとりした風貌ふうぼうの彼女だ。一見いっけん育ちの良いお嬢様然としており、洒落しゃれたカフェやケーキがよく似合う。実際、練馬の地主の娘だからある程度お嬢様だろうが、真の姿はけっこうお転婆てんばで、ハキハキしていて、その癖、大きな黒目勝ちの瞳には他人を心底しんそこ心配し、思いやる温かな気遣いがまたたいて、飴とむち、と言うのも変だが、その二つの合力ごうりょくがとにもかくにも素晴らしい。他人をひどく大切にするタイプだ。

 だがそれだけに、帆織は彼女自身について心配させられる時がよくあった。

「俺たちが潜る前に無人機で予備調査やるんだってな。準備、進んでるか?」

 彼が訊ねると、

ゆうべ、やっと一段落ついたんだ。水中ドローンなんかの準備はすぐなんだけどさ、大学へ出す計画書がね。先生の言葉を他の人に分かる原稿に起こすのが一番、大変だから」

「……イタコみたいだな」

 思わずくぐもった笑いを漏らした帆織を真奈が睨む。

 唇を突きだし、頭を振って、

「進水式典の招待状を私が先生へ渡さずに、シュレッダーにかけちゃえばよかったんだよね。解放されて警察のボートで桟橋さんばしについた時、よっぽど弱ってるだろうな、いたわってあげなきゃな、って思ってたのに、小躍こおどりしながら出てきたんだよ、あの人。あのあとすぐ大学に戻って口述筆記させられたんだから。ただでさえ早く帰りたかったのに……」

「確かに、そんなこと言ってたな」

 帆織は言葉を濁した。

 あの乗っ取り事件に人質として巻き込まれた二人の恩師、井崎は遊覧船のガラス越しに大川の水底みなそこへ楽園が現れるのを見たと主張している。おそらくは帆織の見た「何か」と同じものだろう。そしてあれは確かに、名づけるならば――、いな

「先生には悪いが……ちょっとなぁ」

「犯人たちが投降したのは楽園を見て回心かいしんしたからですってよ。ダマスカスへの道のりでキリストの声を聞いたサウロと同じじゃよ、ってすごい得意気とくいげに言われた時は私、自分が今、何の研究室にいるのか分からなくなったもんね」

「その例え、俺もさっき聞いたわ。お前がトイレに行ってる間にさ」

 肩をすくめる帆織へ、やっぱりね、と真奈は皮肉と困惑の入り混じった笑顔を見せた。

 国海大こっかいだい井崎善太郎いさきぜんたろうは、最近では日本における「海洋記憶仮説」の第一人者ということになっている。疑似科学の愛好家や神秘家たちからは頼れる旗振り役として、真剣な科学の学徒、研究者たちからは落ちぶれた異端者として。元々はごく普通の、むしろ名うての進化生物学者と言えるほど真面目な科学者だったのだが、帆織が修士課程を出て就職する少し前辺りから、彼には奇妙な言動が目立つようになってきていた。理由は分からない。

 進化論の魅力については、そのとらえ方が各人の思想や哲学に直接、影響を与えることは確かだ。生命に関する美しく精緻せいちで巧妙な全ての諸々もろもろが全くの偶然の産物なのか、意識的あるいは無意識的な意志の産物なのか、脅迫めいた選択が常に、潜在的について回る。

 老境において人生を総括し、教授は自分なりの選択をしたのかもしれなかった。専門に関する発言に論理の超越的飛躍や独善的倫理観、世界観が混ざり始め、ついにはデータや共通認識より、おのれのインスピレーションを重視し過ぎるばかりになった。今では、国海大にその人在り、とまでうたわれた生物学者であったのも遠い昔、過去の名声において在籍と俸給ほうきゅうを許されるマッド・サイエンティスト、ないし一種の宗教家として、嘲笑と憐憫れんびんの対象となっていると帆織は聞いている。学際における典型的「老害」の一つ、とのこと。

 そしてその井崎教授の近年の主張によれば〝海洋記憶に接続することで、生態系は地球生命史を再現することができる〟のであり、それゆえ我々は未だに〝けがれ無き原始の楽園へ至る可能性を持つ〟のである。

 生命が海を外付けハードディスクのような記憶媒体として利用し、体外にも進化情報をバックアップしているというのが海洋記憶仮説の骨子だ。

 例えばウィルス、と井崎は言う。

 情報と生命の境界にあるウィルスが宿主のDNA複製、翻訳機構を借用して自前じまえのDNAやRNAをコピーしたり、必要なタンパク質を合成する存在であることは知られている。井崎によればウィルス自体もまた、思い出されるための機能を得た上で単純化され、生命史から飛び出した進化の記憶、情報そのものなのだが、

「沿岸部の海水には一ミリリットルあたり一億個のウィルスが含まれると言われておる。深海では一ミリリットルあたりに三〇〇万個、海全体に含まれるウィルスの重量は総計でシロナガスクジラ七五〇〇万頭に匹敵するという学者もおる。だが、こうしたウィルスはカプシドに囲まれた核酸という構造を持つから発見されるのじゃ。目印となる形があってこそ、再生の目的があってこそ在ることが分かる。それらが無ければ、どうじゃな?」

 他にも例えば、植物における病原体としてウイロイドというRNAのみからなる存在も発見されているが、それとてやはり、病原体としての存在意義を持つからこそ同定が可能なのだと彼は言う。

 記録そのものを目的とした場合、塩基配列を表現できさえすれば、記録媒体がDNAやRNAである必要すらない。生命進化における核酸情報は地球史上、様々な過程を辿たどって流出し「裸の遺伝子」として海洋に蓄積されてきた。現実の海はそのまま情報の海、記録と記憶の海なのだ。海性アカシックレコードへの定常ていじょうアクセス手段の確立や如何いかに――。

 環境DNA等を参考に考えれば、なるほど、何かの拍子に化学的に安定した生体情報の断片が海洋中に存在するということもあるだろう。だが細胞記憶として保存されたミームや感情のたぐいまでもが転写を繰り返され、海中に保存されているのだと唱えれば、それはやはりオカルトである。しかも老博士が〝海洋記憶〟を研究する目的が、原初に在ったとされる〝生命の楽園〟とやらへ回帰するためともなれば……。

 同窓会や専門のつどいで教授の噂を聞くたびに、帆織は胸が重くなるのを感じた。恩師の悪評そのものも気持ちの良いものではない。井崎の郷里きょうりで彼のエッセイが道徳の教科書に掲載され、特定の宗教を教育に持ち込むものだと批判する県教職員組合と、問題は無いと言い張る教育委員会の攻防に関するネット記事も胃を鉛のように重くする。だが何より、彼の愛らしい婚約者が零落れいらくした科学者の助手として生計を立てているがため、怪しい宗教家の一味として十把一絡じっぱひとからげに評価されていることが不満だった。同情の声とて同じことだ。

「大丈夫、今のうちの辛抱だよ」

 支離滅裂な論文だって反面教師にはなるんだし、と学術的野心家である真奈はこちらの心配をおおらかに笑い飛ばすが、帆織は納得していない。「恵まれない女助手」の噂話を耳にするたび、居たたまれない気持ちになる。彼女が無為むいな下働きの合間を縫ってコツコツと続けている、大川におけるせい人為的環境改変じんいてきかんきょうかいへんが生態系に与える影響を主題とした研究や論文が至極しごくとうな、贔屓目ひいきめを抜きにしても非常に出来の良いものと知っているだけに、なおさらたまらないのだ。

 教授が暫定ざんてい目標として掲げるのが「エディアカラのその」への接続であることからも、まともな研究者が相手にしないであろうことは目に見える。

 一九四六年、オーストラリア南部フリンダーズ山脈のエディアカラ丘陵きゅうりょうにおける発見はその後の生物学、特に進化学、生命史分野における一大事件であったにも関わらず、当初はその重要性をあまり理解されなかったと言う。発見者は地質学者、レッグ・スプリッグ。

 彼は堆積岩たいせきがん中に軟体動物のものらしき印象化石いんしょうかせき(生物の形だけが岩に刻まれた化石)を発見した。最初、彼はこれをカンブリア紀前期のクラゲだと思ったらしい。全長はわずか三センチ、キャタピラこんのような形状をし、のちに「スプリッギナ」と命名されるこの化石が「カンブリア大爆発」以前、五億六千五百万年前から五億四千万年前の地球に誕生した最初の大型多細胞動物「エディアカラ動物群」研究の発端となった。

「エディアカラ」とは先住民の言葉で「水がある」という意味である。海における大進化の痕跡を残す生命史の聖地には全くふさわしい名だろう。

 エディアカラ動物群の持つ生物学、地球史的な意味としては最古の多細胞動物としての重要性もさることながら、一般的にはのちの「カンブリア大爆発」、すなはち海洋動物相の突然の多様化へ至る準備期として、重要性が強調されやすい。

 アノマロカリスやオパビニアなど、エビを奇天烈きてれつにデフォルメしたようなカンブリア紀の古代生物たちはいまや有名だ。だがアイコン的存在である彼らと比べ、エディアカラの動物は想像図の見た目もごく地味であり、存在が一般に膾炙かいしゃしているとはまだ言いがたい。

 角も棘も無く、プールや海水浴で使う安物のエア・マットのような、ただの肉塊に少し個性が生じた程度の、取り立てて見るべきところもない造形がプレカンブリアンの住人に共通する特徴である。カンブリア紀の動物に比べてインパクトに欠け過ぎる。

 とは言え、エディアカラ動物群が生命史の奇跡的トロフィーであることは確かだ。

 元々他の単細胞生物だったミトコンドリアや葉緑体を取り込み、DNAを核で保護した真核細胞型しんかくさいぼうがたの単細胞生物の登場が約二十億年前、真核細胞が単位として連なり、それぞれが分化して個体を形成する多細胞生物の登場が十五億から十億年前頃とされている。

 全て海中での話だ。そしておよそ七億年前から六億年前にかけて起きたとされる氷河が赤道まで達する全球凍結ぜんきゅうとうけつ、いわゆる「スノーボールアース」が、大量絶滅とその後の生命の大躍進を招いた。大量絶滅によりほとんど消費されることなく海の底に蓄積されていた栄養を利用できた集団が、生命史の先頭を行くチャンスを掴んだのだ。彼らは潤沢じゅんたくな資源を元手もとでに高度な多細胞化を実現、それまでの生物に比べてはるかに巨大な体を手に入れた。

 ミクロな多細胞生物とマクロな多細胞生物では、自己複製の速度や頻度ひんどで後者は前者に大きく劣る代わり、一つの個体としての安定は段違いである。すなはち、この〝多細胞生物としての巨大化〟を経て我々は〝個性〟獲得への足掛かりを得た。最初の発見地にちなみ、この時期に登場したこれら生物を総称して「エディアカラ動物群」と呼ぶ。地球の生命は誕生以降、肉眼で見える大きさを維持できるようになるまで、三十億年以上の年月を要したというわけだ。しかしここに来て、個性の確立と多様化の準備が整ったことを示すのろしがようやく上げられた。

 こうした動物は五億四千万年前頃のいわゆる「大爆発」を境に、外骨格で武装した新手の動物が海に溢れるまで生命史の主役だった。彼らは確かに一つの時代を作った。そして新しく登場したバージェス・澄江チェンジャン型の動物たちにほとんどが食い尽くされ、絶滅した。

 エディアカラ動物群の系統について一石を投じたのはドイツの古生物学者ザイラッハーである。一九九二年、彼はエディアカラ動物群の内で代表格とされた「ベンド生物群」と呼ばれる一グループについて、「生物の五界説」が唱えられていた当時としては大胆な発表をした。チャルニオディスクスやディキンソニアに代表されるチューブ状構造が接合して木の葉のような全体構造を形作っているこれらベンド生物群は「動物」でも「植物」でもない、現在は完全に絶滅してしまった多細胞生物の一界である、と提唱したのだ。これら生体膜のチューブへ原形質の詰まった「キルト」のような生物は大型多細胞生物の誕生に至る「実験過程」を表す存在である、と彼は結論付けた。生まれるには生まれたが結局は地球に受け入れられなかった生命の一形態いちけいたいなのだと。

 こうした古生物の一部を特別視し、ロマンをかきたてる論調は、古くは恐竜、最近ではカンブリア紀のバージェス・澄江動物群についても同様に、古生物研究の黎明期れいめいきには往々おうおうにして見ることができる。

 しかし時間が経つにつれ、夜明けの興奮に対する見直しが進むのも世の常だ。

 ベンド生物群については、そもそも名前の由来となった先カンブリア時代後期を示す「ベンド紀」という言葉自体が、二〇〇四年に国際地質学会が地層区分の見直しを行ったこともあり、あまり使われなくなっている。今では約六億三千万年前から五億四千二百万年前の当該時代は「エディアカラ紀」と呼ぶのが学術的には正しく、その時代に繁栄した多細胞動物が「エディアカラ動物」ということに統一されている。

 またエディアカラ動物群が最初の大型多細胞生物であったという通説についても、新たな知見が加わるにつれ、見直される可能性が生じた。カップのような形をしていた生物の印象化石がカナダの六億三千万年前(エディアカラ期より前)の地層から発見されている。あるいは米国の研究者が、エディアカラ動物の一部が干潟や完全な陸上で生活していた可能性があるとする論文を発表したこともある。この説については現在でも論争が継続中だ。

 だが、

「新たな知見ちけんが加わるにつれ、暴君竜ぼうくんりゅうティラノサウルスの再現図が死肉をあさったり、走れなかったり、子育てをしたり、けばけばしい羽毛を持っていたりするようなものじゃな」

 と、井崎教授は言う。注目すべきはそこではない、と断言もする。

「分類や生態などという、前時代的にして些末さまつな問題などは取るに足りん」

 彼はいつも「エディアカラの意味」について、赤味がかった禿頭をさらに赤く光らせ、ダーウィンと並ぶ進化論の始祖ウォレスを連想させる豊かな顎髭あごひげを揺らしながら熱心に語る。エディアカラの意味とはつまり、生命史における唯一の楽園の存在可能性、「エディアカラの園」仮説である。

 それは絶滅動物に対するロマンチズムのさいたる例であったかもしれない。

 内部に独立栄養型の微生物を共生させたエディアカラ動物群には食う食われるの捕食、被食ひしょく関係が無かった。後に続くカンブリア大爆発以降の世界がまさしく生存競争、弱肉強食の凄惨せいさんな世界となるのに対して、エディアカラ紀は平和な、生命史最後の「楽園」だったのだ、というのがこの説の眼目がんもくだ。

 いにしえの海底に広がる平和の理想郷りそうきょうおおかみ子羊こひつじとともにやどり、ひょう小山羊こやぎとともにふし、小牛こうし獅子ライオン幼子おさなごに導かれ云々うんぬんと預言されたユートピアが未来ではなくはるか遠い昔、確かに実在した――。

 しかしこの説は随分前に化石証拠から否定され、現在は忘れられた説となっている。意味のあるものとして覚えているのは井崎教授くらいなものだ。例えこの説そのものは誤りであったとしても、ヒントを我々に与えてくれていると彼は強く主張する。

捕食器ほしょくきの完成が先か、自他じたの区別が先か、考えてみれば分かるじゃろ。とすれば、捕食被食関係へ移行するまでの世界はやはり、楽園だったのよ。自他の区別と平和の共生するバイオスフェアじゃ」

 彼はそう言ってニンマリ微笑むのだ。

 そして、

いにしえの美を取り戻した大川に呼ばれ、今やこの川で楽園の門が開かれてようとしておる」

 教授は開門のきざしを自分が見たと確信している。

 ジャックされた遊覧船から彼は、帆織が見たのと同じ光景を、帆織より長く見た。そして強烈なインスピレイションに襲われた。

「おそらくは世界的俯瞰ふかんにおける東京水系の浄化の偏りが、門を招いたのじゃ」

 記憶は回想を求め、情報は表現を求める。

「かきたてられた人々の郷愁が呼び水となった可能性もあるじゃろう」

 だが、繊細な記憶にとって現代の昼間は、投影するには明るく騒がしすぎた。励起状態れいきじょうたいは崩壊を予見させる。よって海洋記憶は自らの再生に夜の大川を選んだのだそうで、

騒々そうぞうしい楽園なんぞあるものか」

 忌々いまいましげに彼は断言する。

「今の有様ありさまでは門を固定することはおろか、定常観察も至難しなんわざじゃろうて」

 打ち合わせで教授は興奮してまくしたてた。

 義理でも話へ丁寧に耳を傾ける客の来訪が嬉しかったのだろう。「これを見い」とモバイルタイプのディスプレイシートを示し、

「夜の大川で見慣れぬ生き物を見た、不思議な気配を感じたという目撃談は数多くあるんじゃ。わしが考えるに、これ全て楽園開門のきざしじゃな」

「……先生も、そういうサイトをご覧になるんですね。意外です」

 その時ばかりは、帆織は己の顔が引きつるのを必死で誤魔化さなければならなかった。水軍の子供たちから人気のオカルトサイト「ダゴンネット」のトップページが映っていたからだ。だが教え子の配慮に気づくことなく、老教授は当然とばかり胸を張る。

「時々寄稿きこうもしておるぞ。学問のためには全ての可能性へアクセスせねばならんからな」

 帆織君、と彼はやぶにらみの目でかつての弟子を見据え、

「いつでも門を叩けるとすれば、常に向こうに別の世界があるということになるじゃろうが。門は開かれる可能性があるだけで向こう側たりえる。楽園に至る門を知っておれば、それすなわち、楽園にあることと同義よ。それが門を固定するということよな」

「門を固定して、それでどうするおつもりなんです?」

「まずは固定そのものに意味がある」

 彼は得意気にのたまう。

「君も一目ひとめ見さえすれば、あれはこの世界において固定され続けなければならないものだと分かるはずじゃ。少なくとも、いつでも門が開けられるようになっとる必要はある」

「なぜです?」

 この問いに教授はきょとんとした目で帆織を見返した。眉根まゆねを寄せ、

「なぜと言われてもな……楽園へ通じる門が閉じて良いわけは無かろうが?」

 君にはまだわからんかもしれんなァ――と、帆織の疑念をよそに井崎教授は嬉々として、今度は事前調査に使うドローンの説明へとりかかったものだ。

「でもね、この調査計画、悪い話ばっかりじゃないみたいなんだ」

 喫茶店の薄暗い店内で真奈の目が意味ありげに輝いている。

「スポンサーに新経連しんけいれんが入ってるらしいんだよ!」

「……嘘だろ?」

 思わず鼻で笑ってしまう。新経連は「新日本経済連合しんにほんけいざいれんごう」の略称だ。国海大は国立大学ということもあり、財界や国の支援を受けたプロジェクトそのものは珍しい話ではない。

 だが日本経済を牛耳ぎゅうじる最上部組織が、こんな怪しげで非生産的計画へ少しでも金を出すとは思われなかった。彼らの行動原理は利益か不利益か、それしかないはずだ。零落した科学者の道楽は応用の可能性から離れ過ぎている。

「ところが、なんだな」

 真奈は自慢気な口ぶりで言い、バッグから書類の束を取り出した。

 一枚を抜いて帆織へ差し出す。今回の調査への協力・協賛企業の一覧だ。彼は半信半疑でリストに目を走らせた。真奈が指で示し、

「その〝中津瀬会なかつせかい〟ってやつ」

 井崎教授がまっとうな科学の旗振り役を離れてから付き合いの始まった、名前からして怪しげな団体名の連なりを帆織は複雑な気持ちで眺めた。一番最後にその名がある。

「ナカツセカイ……右翼団体か?」

「違うって! 私も初めて見る名前だったから一応調べてみたんだ。新経連の文化事業部なんだよ、これ。相当の大口じゃん? 今までで一番大きいことは確か!」

 わくわくした顔つきの真奈を前に、だとしても……と帆織は首をひねる。

「なんでまた先生の研究に? トンデモ理論でなくたって応用なんか絶対に見込めない、一文にもならない分野だろ。夢見る大富豪ならともかく、こういう所が出資するか?」

「その先にある私の研究を目当てにしてるんじゃないか、ってひいらぎさんは言うの」

 柊とは帆織の学部時代の同期で、今は水上警察すいじょうけいさつつとめる男だ。教授が様々な団体と付き合い出して以降、本当に危険な団体を避けるためのアドバイスをよく貰っている。

「中津瀬会が新経連の文化部ってことは、柊も認めたのか?」

 帆織の問いに真奈は頷く。ならば確かに、

「……そう考えるのが一番妥当かもなァ」

「でしょ!」

 バチンとウィンクして見せる真奈。

「新経連が東京水系の浄化技術を輸出の基幹にしたがってる、って話はよく聞くしな」

 それが事実だとすれば、地道に蓄えられた科学的根拠が保証する広告塔として、真奈の研究はうってつけだ。地味な研究だがそれだけの価値はある。人為的環境改変を肯定する膨大なデータが提示されれば、工業発展と自然保護が反目はんもくする理由は最早無い。となると新経連が利益を見込み、文化事業のふりをしながら人脈作りも兼ねた投資をする可能性は大いに考えられる。

 帆織は唸った。

「先生の顔を潰さず、今から君に恩を売っておく、ってわけか。うまいもんだ」

「だからさ」

 きゅっと、真奈は悪戯っぽい笑顔をわざとらしく作る。にっこり微笑んで、

「夜間調査のガイド、頑張ってね。私のために!」

「……そうするよ」

「でも先輩だって、いいコネできるかもよ? コネ作っといて悪いことないでしょ?」

 そりゃどうだか、と帆織は肩をすくめた。

「本部に戻れるほどじゃない?」

 全然、と笑い飛ばしたのが気に食わなかったらしい。彼女は少し唇を尖らせた後、残りのケーキに取り掛かった。美味しいのだろう、表情があっと言う間に明るくなる。

 Ⓒ2016 髙木解緒

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。