1 – 13 第一章 ALMOST PARADISE わだつみの宮にさよなら 日本語版

 その老人は唐突に現れた。声をかけられるまで、帆織はまるで気配に気付かなかった。 

 このところ残業続きだったから、さすがに今日は終電前に帰りたい、という彼女の意見を尊重し、真奈とは地下鉄の駅で別れていた。十五分も歩けば帆織の住む永代えいたいのアパートだ。泊まって行けばいいと一度は提案してみたが、彼女は笑って首を振った。

「今はもう、ひたすら眠りたいんだ。泥のように!」

 親にもこのところ心配かけてたしさ、と言われればぐうの音も出ない。

 外は熱帯夜だった。真奈についてもさることながら、冷房の効いた喫茶店が恋しい。

 アルコールが入ることも予想してバヤックを事務所に置いてきたから、独りとぼとぼ、陸路りくろを徒歩で帰る羽目になった。水上通勤では川を最短距離で渡ることができるが、陸では橋まで回り道をしてのはるかな遠回りになる。

 ほんのりした期待に裏切られさびしく家路いえじ辿たどる途中、相生橋あいおいばしを中ほどまで渡った時、彼は異変に気が付いた。涼しい風が吹き、ふと立ち止まった彼の目に赤いランプの光が見えたのだ。見覚えのある色だった。

 本流から分岐してすぐ、大川派川はせんにかかる相生橋の江東区側こうとうくがわ橋脚きょうきゃくのたもとが小さな親水公園になっている。水際まで下りることができ、バヤックを上げ下ろしするスロープがあるのは当然として、陸にはケヤキやカエデなどの植栽が小規模な林を作り、夏の昼間はちょうど良い水辺の木陰となる河川利用者いこいの場だ。休日はバーベキューを楽しむ人々も多い。同様の公園が最近の東京水系ではよく整備されている。学校が終わった頃を見計らって川沿いの各公園を巡れば、周辺の水域を縄張りとする水軍の子供たちが潜りで冷えた体を温めている。漁の合間に一息入れる「SUIGUN」に出会えるでしょう、と外国人観光客向けのガイドブックにもある種の名所として載っているくらいだ。

 だが日も暮れて大分だいぶ経つその時の公園には、人の姿がまるで無かった。覆い繁る木々のこずえに街からの灯も遮られ、林の中は暗く、うっそうとした雰囲気は昼間とまるで違う。暑さもあるのだろう、スズキ狙いの釣り人が川辺で竿を振っている様子も今日は無い。

 そんな中、赤いランプが点滅していた。妙に遠いようで、しかしはっきり光っている。

 観測箱の表示灯だ。水際に設置された金属製の箱には川の水温や流速、化学変化などの連続的な計測を行う機器類が収められており、その管理は帆織たち指導員の仕事に含まれている。月一の点検時以外、開けられることはほとんどないはずだった。

 なのに赤ランプ、施錠せじょうされていない警告がともっている。

 誰だよ、と内心ないしん舌打ちする気分で帆織は公園に入った。出張所の職員で誰か、前回の点検で鍵を閉め忘れた者がいるのだ。当番は誰だったか――。

 記憶を探り、

「あれ? ……俺か?」

 公園と言っても規模は小さい。思い出すのと、観測箱の前に辿りつくのとが同時だ。

 そして彼には前回、きちんと施錠した記憶があるようだった。では誰か最後の点検以降に開けた者がいるのか。そう思って箱を見ると、ランプはついていなかった。施錠は完全で、取っ手を引いても扉はびくともしない。

 見間違いか。暗がりの中で独り首をひねる。

「夜の川はいですな」

 急に声を掛けられ、帆織の心臓が大きくねた。振り返るとその老人がいた。

 好々爺然こうこうやぜんとした笑みを浮かべて会釈えしゃくした相手に、帆織もつられて頭を下げる。

 この辺りは人が多い。古くから下町に住む人々に併せ、高層マンション群へ住み始めた新区民が加わり、昨今さっこん臨海部の区は軒並み人口が増加している。この老人は格好や雰囲気から見ておそらく下町の住人で、夕涼みの散歩にでも出てきたのだろうと思われた。

「本当に、夜の川は好いです」

 老人はまた言った。

「昼と違って、静けさがありますね」

 騒がしい子供たちを思い出し、帆織も微笑みながら答える。左様さよつ、と老人が頷く。

「昼の川は美しいですが、少々き通りすぎている。年寄りには少し疲れます」

「しかし今の大川は、郷愁をさそうほどだと聞いたことがありますよ。白魚漁しらうおりょうが盛んだったはるか昔の頃を、その頃を知らない人々にまで思い出させるんだそうですね。昔の美しさを取り戻したという意味だと思っていたんですが……」

「――まだですな」

 帆織はハッとして老人を見返した。相手の声音こわねには何か、含む調子がある。

「まだ、すっかり戻ったとは言えません」

 にこやかに目を細めつつ、しかしはっきりと首を振る老人に、どうやら外来種完全排除論者らしいと帆織はあたりを付けた。近隣の住民に近頃増えていると聞く。区民館の公開講座でも排除論やその方法論は人気科目で、駆除ボランティアも盛んに行われていた。

 浄化された大川は水圏すいけんの生物ばかりでない、様々な人もきつける。高潔な理想を胸に抱く人々だ。帆織の事務所にもよく、環境保護活動のアピールに関する事業提携や協力の申し入れがある。もっとも、少なくとも現場レベルでは全て丁重に断っている。

 公的機関としての中立性を保つため、というのが表向きの理由だが、数少ない指導員で子供海賊を治めるだけでてんてこまいな日常へ、頭の湧いたロビイストの金切り声を追加する気になど誰もならない、というのが正直な話だ。それでもこの「人工楽園」に一枚噛みたい組織は多いらしい。最近では国際海洋保護団体の有名どころから「河川環境経営に関するオブザーバー参加の申し入れ」があり、原則通り丁寧に御断りしたのだが、素直に大歓迎されると考えていたらしい相手側からかなり辛辣しんらつで攻撃的な物言いがついた。

「だから噛ませたくないんだってぇの」

 相手からの電話をようやく切った後、汐田しおた所長が大声でぼやいていたのを帆織も覚えている。結局、所長の巧みな誘導を受けたその団体は今、区と提携して「遺伝子多様性保護学」の公開講座を受け持ったり、実習と称したデモを主催したりしているらしい。この老人もそうした講座の受講者にありがちな「目覚めた」雰囲気があるようだった。

「まだ、足りませんか」

 帆織の問いに、

「まだです。まだ足りない」

 まだまだ、と歯を見せて笑う。

 水質環境が有史ゆうし以前とまでうたわれるようになった大川で、外来種問題は確かに、現実的な次なる課題と言って良かった。水が澄み渡り、川の隅々すみずみまで目をらせるようになってみれば、ヨーロッパや中国原産のカニ類、北アメリカ原産の二枚貝など、記録に無い動植物たちが跋扈ばっこするようになっていた。元々在った生態系は泥水の中で大きく変化していたのだ。完全排除論者はそれらを駆除し、大川の復活をさらに強化しようと声高こわだかに訴える。

「ですが」

 帆織は言った。

「生態系を元通り復活させることは、相当難しそうですね」

 彼はどちらかと言えば中立な見方をしているつもりだ。

 学生時代に生物学、特に遺伝進化学を専攻し、生物多様性保全の重要性を理解している。外来種についても、よく取り上げられがちな生態学や遺伝学分野での観点より主にウィルス学、疫学の観点から安易な導入はやはり避けるべきだと考えている。その上、彼はある意味、外来種によって実害をこうむった。こうした点だけを考えれば彼自身、外来種はいすべし、と徹底的に唱えてもおかしくは無い。

 しかし進路が狂わされた経験そのものがかえって、完全な信仰をさまたげもしたのだ。

 確かに彼は外来種問題によって人生のコースを捻じ曲げられた。だがそれは外来種そのものの問題ではなく、明らかに、人に起因する狂いだった。

 外来種問題に限らず、環境保全を隠れみのに私利私欲をやす連中がいることは確かだ。環境にせよ何にせよ「こう在らねばならない」という狂信はそうした連中につけいる隙を与える。既得権益を作る口実にもなる。まずは人が変わらなければ、いくら周囲の環境を良くしたところで、今度は人そのものに関わる汚染を生むだけだ、と帆織は思う。

 チチュウカイミドリガニの脱皮固体を「アメリカンブルークラブ」の名で売り出そうと画策した豊洲とよす水軍が「外来種で金儲けしようとはなんたること」と一部の大人たちに非難され、獲物も罠も没収されて燃やされる事件が以前あったが、不正の燃料になるくらいならば、水軍の子供たちのようにあけっぴろげに、堂々と利用する方がよほど健全な気がする。

「なに、簡単なことですよ」

 ニッと、老人の笑みが大きくなった。

「それが、あるべき姿なんですからね」

 帆織は答えにきゅうした。信仰者は苦手だ。それは変貌へんぼうした恩師を訪ねた時から確認済みだった。温かな微笑みを見せながら心を固く閉ざしている人間が彼には不気味だった。

 川を見やり、なんと言うべきか考える。

 穏やかにこの場を離れるには――、

「例えばの話なんだけどさ」

「え?」

 声に再び振り返り、帆織は目を見張った。

 トヨミがいた。

「おじいさんは?」

「おじいさん?」

 怪訝けげんな表情を向けられる。

 黙ってしまったこちらを不信心者ふしんじんものと感じ、目を離した隙に行ってしまったのか。穏やかな表情のわりに意外と偏屈な性格だったのかもしれない。見回してみても、周囲にあの老人の姿は無かった。

「……この辺りのお年寄りは足が速いな」

「うん。うちの大叔母さんも、結構速いかな」

「君に大叔母さんが居るとは知らなかった」

「私も、あなたに彼女さんがいるなんて知らなかった」

「……見たのか?」

「キスされて、にやにや笑いながら地下鉄口にバカみたいな顔で突っ立ってるところ?」

 帆織は腕を組んだ。次会ったら思い切り叱りつけてやろうと思っていたのだが、

「……君はここで、なにしてる?」

「好きな人がいるとして、好きです、って言うのと、好きです、って言ってもらえるのを待つのと、どっちがいいと思う? ――ああ、だから、例えばの話ね」

「どうしたッ?」と目を丸くした帆織を見て、トヨミは慌てて最後の言葉を付け加えた。

「すまないが俺には婚約者がいるんだ。それに、年齢の差もある」

「ひどい勘違いだわ、おじさま」

「おじさまの方がひどい」

「オッサンでも何でもいいよ。参考に訊いたまでだから。それに、例えばって言ってる」

 で、どうするの、と促すトヨミに帆織は唸った。

「……俺なら、言うかな。うん、自分から言う」

「どうして?」

「結果はどうあれ、次に進むためだ。大事なのはそこだろ」

「次に進んでる人らしい意見だなァ。……なるほど」

 トヨミは妙に納得した様子だ。

 少々の沈黙、二人のあいだを川風が通り過ぎる。

「で、そっちの話ってのは?」

 ふいにトヨミが言った。きょとんとする帆織へ向かって、

「言っとくけど、今日のお説教はいらないよ。あの三人しつこくてさ、水の中まで追ってこられたらあいつらが溺れちゃうから、陸にいるうちに追ってこられないようにしただけだもん。そうじゃなくて、このあいだ会った時、言ってたじゃない。あとで話があるって」

「イワシ漁の時か? だいぶ前の話だな」

「後で、とは言ってたけど、いつ、とは言ってなかったと思う」

「そりゃそうだが……」

「事件の時、私の体に触ったことについては、まあ、あの状況だから許してあげる」

「謝るつもりはこれっぽっちもなかったがね」

「じゃあ何? わざわざ来てあげたんだから、早く言ってよ。私、忙しいの」

 今度はトヨミが腕を組み、ねめつけるように見上げた。帆織は躊躇ちゅうちょし、相手がこんな夜でも見慣れた潜水スタイルであることに目をつけ、

「忙しいってのは、やっぱり……」

「要点のみ、手短にお願いします」

「二つある。一つ目はジャック事件で君がなぜ俺たちを妨害したのかということ。二つ目は……あれはなんだ? あの時、川底で見たアレだ」 

 はいはい、とぞんざいにトヨミは頷き、

「やっぱり見たんだね」

「説明できるか? 君が犯罪に加担してないことと、あれの正体」

「犯罪に……加担?」

 いぶかしんだ少女、一転カッと目を見開き、帆織へ喰ってかかった。

「それ、私が強盗の一味だと思ってるってことッ?」

「言葉のあやだ。だけど、警察の突入を邪魔しただろ?」

「だから何!」

 胸を強く小突こづかれ、帆織はよろめく。トヨミは本気で怒っていた。

「ただの女の子が特殊部隊を全滅させたんだぜ? 普通はありえない」

「あんな連中、水の中ではただのウスノロよッ。それが理由?」

「いや、だからさ。俺だって本心でそう思ってるわけじゃない。君が犯罪者の味方だとか魔女だとか信じてるわけじゃないんだ。君が本当はいい子なんだってことは分かってる。だが、結果的に彼らを利したことにはなるわけで……」

「知った風な口きかないで。通報でも何でもすればいい!」

 少女は棒立ちに突っ立って帆織をにらみつけた。両のこぶしはぎゅっと握りしめられており、

「ああ、もうッ!」

 地団太じだんだを踏まんばかり、苛立ちを抑えきれない様子でうなる。

 ばかばかしい、と吐き捨てる呟きを帆織は聞いた。それはどこかで聞いた台詞せりふで、

「きちんと説明してくれればいいだけの話じゃないか」

「そんなヒマ、無い!」

 握りしめた右の拳が、帆織の目の前にぐっと突き出される。 

「……な、なんだよ」

 帆織の問いにトヨミは唇を噛んで答えない。と、次の瞬間、勢いよくその拳を開いた。掌中しょうちゅうから放たれた水飛沫みずしぶきが顔面へ飛び、帆織は反射で目をつぶる。両のまぶたがたっぷり濡れて、

「もっと、ちゃんと、見て」

 押し殺した声がした。続けざま、飛び込む水音が聞こえる。目をこすり、顔をぬぐった帆織が再び瞼を開いた時にはもう、夜の大川がとうとうと流れているだけだった。

 © 2016 髙木解緒

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