1 – 14 第一章 ALMOST PARADISE わだつみの宮にさよなら 日本語版

 陸の灯りがずっとかして差し込んでくるので、夜の川、と言っても水の中は意外に暗くない。見渡せば灰色がかった川砂の砂漠がどこまでも広がっているかのようで、その上に輝いてざわめくのは月星つきほしにも見える小魚の群れである。

 そして帆織は、恩師の天才へ納得せざるを得なかった。

 一瞬の静寂せいじゃく。直後、まばゆひらめきの幻想が彼を襲った。海底火山の亀裂か、稲妻の閃光か。続いて湧き出す原始の律動。鼓膜を穿うがち、腹へ深く響く重低音を彼は錯覚する。しかし、不快なリズムではない。むしろ自然に体が揺れる。つま先が調子を取り、かかとが砂底すなぞこきざむ。ヘルメットの内側で不思議な笑みが自然と込み上げてくる。

 地球の、鼓動――。

 潜水服の生地きじは分厚く、移動がようやくできる程度にごわついて硬い。

 ウェットスーツと違い、一滴も水の入らないドライ仕様で、外見はダイバーと言うより船外活動をする宇宙飛行士に近い。内部の圧力を調整したり、水を分解して酸素を発生させたりできる機能を自前で持っている。本来はこんな浅場でなく水深三十メートル程度のサルベージや遺跡調査など専門的海底作業に使われるそれなりの高級品なのだが、そこはスポンサーがかつてない大手なだけあって、簡単に調達することができたらしい。

 その内側で、帆織の体は小刻みにリズムを取り続けている。

 学生時代、幾度いくたびか真奈と訪れた渋谷しぶやのクラブを彼は思い出す。彼女の成人記念というのはまるで名目めいもく、ごく真面目な学生カップルだった二人は最初、ほとんど怖いもの見たさで、おっかなびっくり、界隈かいわいで一番有名な「はこ」へ行ってみたのだった――。

 ふいに、ずぅん、と一際ひときわ大きく脳へ響いた。次の瞬間、感嘆の呻きをもらしたのは四人のうちの誰であったか。あるいは全員だったかもしれない。パーティの開幕だ。

「見たまえ!」

 無線を通じて井崎教授が叫んだ。帆織の視界がふいにひらける。

 教授の指す方向からは薄桃色の水中花壇が、川底をトットコ近づいて来る。

 いな、花ではない。小型の有柄ゆうへいウミユリだ。葉のないチューリップとも見えるウミユリが白や桃色の体を次々に砂底から突き出しているのだ。

 調査隊はたちまち、咲き乱れる花畑の真っ只中にたたずんでいる。帆織はジャック事件の晩を思い出した。花壇はあの時以上に鮮やかに色づいていると思われた。

 チームはウミユリを踏み潰さぬよう、つま先で根をかき分けるようにしながら川底を進む。そのために砂から抜けるウミユリもいるが、それは心配ない。そうした個体は花びらの縁取ふちどりにも見える腕をそろそろ動かして這い回り、好い場所を見つけると柄を砂底に差し込んで、また、ゆらゆらを決め込んでいる。植物のような外見を持ち、名前もユリだが、彼らはれっきとした動物なのだ。

 夜間調査隊のメンバーは帆織も入れて四人、隊長の井崎教授、記録係を買って出た区報記者の猿葉さるは、水中カメラマンの仁部にべ、そしてガイド役の帆織だ。

 彼らは薄明るい水底をゆっくり歩き進んだ。流れは緩い。今晩の川はひどく穏やかで、突入作戦の時とは比べ物にならない。歩ける、というだけで行動の幅がかなり広がる。

 大潮でなく、小潮こしおの終わりを選んだのは安全に配慮したからだ。井崎教授は再現可能性の高い大潮の頃合いに調査するべきだと主張したが、そこだけは帆織もゆずらず、結局は早く潜りたいという井崎教授の欲求を突くことに成功した。それでなくても無人潜水艇による事前の予備調査がことごとく不調に終わり、老翁ろうおうは大いにじれていたのだ。

 もちろん頑固者のこと、再現性向上の工夫を完全に放棄するはずもない。今回の調査で結果を出せたのなら、ただちに屈強な男達から成るチームを投入して全ての潮回りで徹底的に調べ上げる、と教授は潜る寸前まで息巻き続けた。

 しかし不満や鬱憤うっぷんは最早、雲散うんさんしたらしい。興奮の度合いを周囲に知られたくないのか、無線に混じる極端に抑え込んだ息遣いと、いつもの能弁者のうべんものの沈黙とがそれを物語っている。

 境界を越えたと気付かぬうちに、彼らは生命史の中にいた。可視的に再生される生命の一大絵巻いちだいえまきに取り囲まれていた。

「ありえない……」

「しかし“ある”のだよ、帆織君」

「あ、あれ、アンモナイトですよねッ」

 仁部が叫ぶ。

 いつの間にか、一抱え以上もある巻きがらほこる巨大頭足類とうそくるいの群れが目の前を悠々ゆうゆうと泳いでいた。白亜紀の終わりに絶滅したはずの彼らは一様いちように目をぎょろつかせ、重厚な殻で巧みにバランスをとりながら、短く揃った触手のうごめきを仁部のせわしないフラッシュで水中へ焼き付けた。

「ウミサソリってやつですか?」

 猿葉の指さした先、十メートルくらい離れたところへ今まさに、エビとサソリの中間のような姿形すがたかたちの生き物が砂煙を立てて這い出してくる。こちらを認めると弓なりに体を反らして威嚇した。尾鰭の目玉模様を誇示し、鋏脚きょうきゃくをガチャつかせる。

 ふと帆織は足元に、小さく動く影を見た。

 立ちどまり、ウミユリの草むらへ潜水服のいましめにあらがいながら手を伸ばし、そっとたなごころすくい上げる。小型のトリロバイト……。

 器用に指の間からのがれ、泳ぎだそうとした三葉虫は文字通り溶けてしまった。水流の起こす小さなうずまれ、拡散する残滓ざんしを帆織はぼんやり目で追った。

「先生、こいつら実体が……」

「影じゃよ、帆織君。海洋記憶の影、開門の予告編みたいなものじゃ」

 予告でこれか、と帆織は呻いた。ならば本編はどんなものなのか――。

「これはみんな、川が見せている幻ということですか?」

 猿葉が問う。

「先生のお説によれば、この川の河口域が海の記憶を映写するスクリーンの役目を果たすとか」

「いずれ向こう側へ通ずるスクリーンですぞ。だが、こうも滅茶苦茶なのは何故か……」

「何が滅茶苦茶なんです?」

 井崎は直接答えず、

「帆織君、分かるかね」

 古生物に関して帆織が事前学習をしたのは、教授の考えにかれたからでは決してなかった。打ち合わせをきっかけにふと思い出し、本棚の肥やしとなっていた地球史関連の図鑑を寝る前に二、三度眺めただけに過ぎない。しかしだからこそ、知識に裏打ちされた今の興奮がある。

「見えている動物の生息年代がバラバラなんです。古生代、中生代、新生代、それぞれで絶滅したものが一緒に泳いでる。あれは多分、四足よつあしクジラのジョージアケタスで、あれは初期の古代亀こだいがめオドントケリスでしょう。アロサウルスとライオン以上に時代が違います」

「本来、一緒にいるはずのない生き物たちということですか」

「そうです」

 だが、そんなことは帆織にとってどうでも良かった。今存在するはずのない生物が今、泳ぎ回っている。まだ影のように実態が定かでないとは言え、元々それだけで十分滅茶苦茶なのだ。

 その名の通りの形をした海ソテツ、木の葉が一枚生え出しただけのようなカルニオディスクス、有柄型ゆうへいがたウミユリなど、多種多様な無脊椎動物むせきついどうぶつひしめく海底花壇がはるか遠くまで、一面に広がっている。流れに体をなびかせ、水中の有機物をし取って食べている。

 花々の合間あいまを泳ぎ回る小魚や節足動物には当然、現代の、実体ある生き物たちも含まれている。イワシやサッパ、マハゼに芝エビといった、水軍の子供たちの獲物となる魚介類だ。ただ昼間見るよりずっと数が多い。型も良く、堂々としている気がする。爛々らんらんと目を光らせている。

 そして躍動やくどうする、いにしえの生き物たち。五つ目の生体掃除機オパビニアやナメクジのような原始魚類ハイコウイクチス、遊泳型三葉虫などが縦横無尽に泳ぎ回る。ハッとした帆織が足を上げると、川底に隠れていたアノマロカリスを危うく踏みつけるところだった。相手も驚いたのだろう、身震いして背中の砂を払い落とし、つらなるひれをうごめかしてたちまち遠くへ逃げ去ってしまう。見送る帆織の視界をさえぎるのは小型甲冑魚かっちゅうぎょの群れが織り成すカーテンの揺らめき、オウム貝の素晴らしい直進性、オドントグリフィスの大群だ。時折ときおり遠くにかすむのはモササウルスや首長竜、魚竜など巨大海生爬虫類かいせいはちゅうるいの影だろうか。だがそれらはまだ遠い。

 二つの興奮に帆織は酔いしれた。

 絶滅した動物たち生きて、わんさと目の前を泳ぎ回る興奮が一つ。その舞台が東京のど真ん中をつらぬく、ここ、大川であるという興奮が一つ。

「しかしの、本番でもこんな乱雑に再生されては、楽園までさかのぼるのが、ちと、ほねじゃな」

 井崎教授の呟きが遠くで聞こえる。

 馬鹿な、と帆織は思った。

 これは生命の躍動だ。これこそ命のざわめきだ。再び律動が意識される。リズムを取り、体が勝手に揺れ動く。止めるな。パーティを止めるな。

 やはり似ている。あの、クラブだ。

 踊っているのが人か他の生き物か、真奈がいるか、いないか、違いと言えばそれだけだ。彼の視界が徐々に記憶と同期する。首をもぐような大音量のEDM、紫の闇を切り裂くレーザー光線、充満した熱気、大勢の男女が打ち寄せ合う肉のうねり、足踏み、すぐに馴染み、恍惚こうこつと体を揺らす真奈の笑顔、白い歯、したたる汗、煽情せんじょうの腰つき――。

 その時だ。

 歌が聞こえた。

 いな、感じた、と言った方が正しいかもしれない。その途端とたん、帆織の体は棒立ちに水底みなそこへ突っ立った。動こうとして動けない。

 一体、誰が歌うのか?

 緩い流れを利用して体の向きを変えるのがやっとだった。見れば三人とも彼同様に突っ立って、水中のただ一点を凝視している。

 帆織も、見た。

 人の「ようなもの」。血管のく青白い肌。腹の下辺りには退化した両脚がぶら下がり、下半身は全体的に尾鰭おびれと見える。だが「人魚」と呼ぶにはあまりに禍々まがまがしい。

 ――アナタタチハ、ハイレナイノ。

 うかれたリズムは最早無く、いつの間にか始まっていた耳鳴りの中、確かにそう聞こえた。息が詰まる。ぎゅっと目を閉じたかったが、帆織のまぶたは彼自身の意に反して極限まで見開かれ、そのまま固定されてどうにもならない。

 歌声がますます大きくなる。

 そうか、と思う。こいつだ。こいつが歌っているのだ。しゃべりながら歌っているのだ。

 ふと、耳鳴りの中、歌声の中にヒトの肉声までもが混じり始め、

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」

 猿葉か仁部か、あるいはその両方か。念仏を唱えるように謝罪を繰り返している。

 ヘルメットの中にじくじくにじむ汗の感触がこちらへも伝わってくるようで、

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさ」

 ――ユルサナイ。

「おかあさぁぁぁぁぁぁぁんッ!」

 出し抜けに絶叫した猿葉が自らヘルメットをもぎ取り、投げ捨てた。巨大な泡が立つ。水中で首から上が剥き出しになった。必死の形相ぎょうそうだった。うねる海藻のように髪の毛を逆立て、目を剥き、口を大開きにして、彼はごくごくと周囲を飲み込み始めた。

「何してるんです!」

 帆織は叫んだが届かない。

 開きっぱなしの唇が過呼吸のように戦慄わななくのが見える。口角こうかくが裂けるのも構わず、腹へ肺へ、自ら水を取り込んで、まだ飲む、まだ飲む、飲み続ける。死んでも飲み続ける。

 ああああああッ、という二度目の叫びは仁部カメラマンのものだ。カメラを投げ捨て、ヘルメットを脱ぎ捨て、隣の猿葉、最早惰性だせいで吸水するだけの溺死体できしたいとなった彼に負けじとばかり、ぞ、ぞぞぞぞ――。吸引が限界に達すれば、がぶがぶ、がぶがぶ、世界をくわえ込もうとする。急性水中毒、内臓破裂、窒息、諸々の死因を愉悦ゆえつのうちに迎え入れる。

「先生!」

 わめくように呼びかける帆織、

「うむ」

 冷静な返事が返って安堵あんどする。

 だがそれは間違いだ。彼は穏やかに受け入れるだけなのだ。育ちの所作しょさで、まるで陸上の式典で礼帽を脱ぐかのようにゆったりと、ヘルメットの留め金へ手を伸ばし、

「先生ッ!」

 細く引き締まった顔に白い頬髯ほおひげが揺らめく。堂々と仁王立ちに、老人はおもむろに口を開いた。その顔は勇ましかったが、目には安らぎがあった。飲めるだけ飲んで死んだ。

 水にふくれた肉壺にくつぼ、三人は巨大な赤ん坊の水死体ともホヤともつかぬ青白くむくんだ塊と成り果てた。二本の足を根と下ろし、海底にえる固着動物のようにふるふる揺らいだ。

 軽やかな笑い声が響く。帆織は目を逸らすことができない。醜悪な存在にも似合わない穏やかな微笑み、幼子おさなごいつくしむ母親から直接転写したとも思われる唇の曲線、頬のえくぼが目を奪う。一つ一つが細部まで網膜へ刻み込まれる。

 込み上げる、込み上げる、腹の底から込み上げる。今にも叫びそうになる。全てをゆだねてしまおうと、死へ向かう快楽にきもえて溺れそうになる。謝りたい、謝りたい。甘えたい、甘えたい――。

(ダメだ!)

 両手が自然に動き出そうとして、だが彼は力を振り絞ってそれを抑えた。首をるだけ仰け反らして指と留め金との距離を保った。おや、と言う風に相手の顔がゆがんで、

 ――ガンコネ。

 違う! 嘲笑あざわらいだ! 気付いた瞬間、手が動く。エイけにかついでいたスタン・スピアを肩から下ろし、接近する相手へすかさず繰り出す。当たった。電流も流れた。だが、

 ――ゥフ。

 笑いは止まない。代わりに歌声がずっと音量を増して粛々しゅくしゅくと、しかし鮮烈に脳内へ染み込んできた。頭蓋骨の裏側を無数の虫が這いまわるようだ。脳が触手にからめ取られているようだ。柔らかいつたの締め付けが大脳へ直接食い込み、ごりごりと糸鋸いとのこめいたあとを付けて苦しい。いや、かゆい。ひどく痒い。開頭かいとうしてむしりたくなるほどに脳が痒い。

 鼻水を、よだれをヘルメットの中に撒き散らして帆織は唸った。

 手を伸ばす。潜水服には緊急浮上用の解除装置がある。この程度の水深なら血中窒素や圧力差は問題にならない。スイッチを押せば潜水服は一瞬で各パーツに分解するだろう。

 羽化する川虫のように、一瞬で全てを脱ぎ去って浮かび上がることができれば、あるいは、

 ――ゥフフフッ。

 解除はできた。だが浮上用のガス圧式浮力体は膨らまず、帆織は丸腰で水中に放り出されていた。彼は蹴った。思い切り力を込めて蹴った。しかし効果は無かった。いつのまにか片足にすがりついていた白い人間のようなものは、表面がぶよぶよとしていて、つるりと打撃を受け流してしまう。そしてそのたびに見上げた顔で嘲笑うのだ。

 水死人すいしにんを思わせる青白くむくんだ顔面には目や鼻孔びこう、口などのパーツが一通りそろってはいるものの、胡粉ごふんを塗り込めたような肌が水へにじむようで凹凸おうとつが判然としない。水カビをぽやぽや生やしたその中で、無いほどに薄い唇が「笑っている」とだけ分かるのだ。

 歌が響く。頭へ響く。耳の中の渦巻きを意識させる。謝って死ねと言われ続ける。

 帆織は再び蹴ったが、今度はそちらの足も絡め取られてしまった。白い腕はか細い見た目と不釣り合いに力強く、あらがう両足を易々やすやすと抱えて彼をさらなる深みへ引き込みにかかる。足首からすね、膝へ手を伸ばし、全身でのしかかるように這い上がってくる。

 振りほどこうとして彼は必死に身をよじる。だが息が続かない。また一つ、口から大きな泡が出た。慌てて飲み込もうとしたが遅かった。空気の塊はあごをこじ開けて漏れ出し、彼を置いてけぼりに軽々とのぼって行った。水が直接鼓膜を押していることに今更いまさら、気付く。肺は膨らみ、水中にいるはずの体はひどく火照ほてり、視界が急激に狭くなっている。

 その視界の真ん中で、顔はやはり笑っていた。相手は鰓呼吸えらこきゅう併用へいようしている。豊かな頭髪とも見える外鰓がいさいをふさふさとうごめかしては見せびらかし、いやらしく笑う死肉喰いの笑顔がついに視野を占領する。

 帆織の意識は朦朧もうろうとした。とめどなく飛び出そうとする呼気の残りが喉元のどもとにかろうじてつかえていたが、長くはもたない。輝く水面は果てしなく遠く、笑顔はさらに迫りくる。意識が飛ぼうとする。あきらめが誘惑する。背中が川底に当たり、自分が自分を明け渡そうとする……。

 転瞬てんしゅん、笑顔の下に影が差した。顔の付け根、生白い喉首のどくびへ素早く巻き付いて笑みをつぶす。いや、影でない。腕だ。背後から伸びた黒く細い腕が、白い喉元へ深々と決まっているのだ。ひじで相手の顎を大きく仰け反らせ、逆向きにへし折らんばかり、容赦なく締め上げているのだ。

 嘲笑はもうどこにも無い。泡がはじけて嗚咽おえつが響いた。無いほどの目が大きく黒く剥かれ、口からこぼれ出す吐瀉物としゃぶつが水中に腐臭ふしゅうを撒き散らした。

 帆織からそいつを強引に引きがす、影のような誰か――。

(トヨミ……)

 白い腕から力が抜け、帆織の体を解放する。

 と、今度は黒い足が片方素早く突き出され、流れに漂い出した彼の太もも、筋肉の割れ目を爪先でねじ込むように蹴飛ばした。激痛が走り、かつが入った。

 正気に返った帆織は渾身こんしんの力を振り絞って水底を蹴る。自分の吐いた泡より早く水面を目指す。飛び出すと同時に息を吸った。だが、疲れ切った体が再び沈み始めてしまう。

 慌てて手をばたつかせると、指先が巨大な漂流物の縁端えんたんとらえた。何とか乗り上がり、横たわる。むせび、また息を吸い、鼻をかむ。

 続け様、水面を突き破った二つの顔へ彼は振り返った。

 一つはやはり判然としない、しかし完全に笑みの消えた白い顔だ。逃れようとして歯を食いしばり、喉の皮を引きらせて懸命にもがいている。顔面中が痙攣けいれんしている。だが、首筋に決まった腕はゆるまない。締め付ける筋肉へはさらに一層の力がこもり、気管と外鰓がいさいを圧迫する。

 腕の持ち主。水を割ると同時に息を継いだ彼女の唇は早くも硬く引き結ばれ、二連式ゴーグルの中の両眼は炯々けいけいと輝いて、

「トヨミ!」

 帆織は叫んだ。見間違えようがない。彼女だ。彼は目を見張る。水上で格闘する少女へ釘付けになる。

 人間の「ようなもの」の口からは、ついに大量のあぶくが漏れ始めていた。

 組織の崩壊を引き起こした内臓がえぐみのある臭気しゅうきとともに唇よりあふれ、泡立ちのひどい合成洗剤のように細かいあぶくとなって垂れ流されている。内臓だけでない。白々と水へ馴染んでいたはずの皮膚が全て、あぶくに転化し始めている。苦痛にもがけばもがくほど体表は極微ごくびな気泡の群れとなって本体から剥離はくりする。少女の勝利は目前もくぜんと見え――。突如「ようなもの」が絶叫する。

 一瞬の静寂。

 直後、白い巨体が水底から差し迫ってトヨミを襲った。鼻づらで突き込むように激突し、そのまま猛然とひた走った。

 全長十メートル近い、さめの「ようなもの」。

 目が無く、特徴的な鰓孔さいこうも無い。流線型の白い巨体、その頭部には大きく開く口だけがある。歯が無く、暗く、ぽっかりとした穴が開閉するだけの、丸飲みのための口だ。形態はウバザメに近いが鮫ではない。おそらく、魚ですらない。

 白い巨体は少女の腹へ鼻先をなおも突き込み、うずめながら突っ走った。物量に任せて彼女の体を押し切ろうとしていた。激流で緊縛きんばくし、もぐり、やぶり、つらぬかんとする激烈な突撃に、泡が、飛沫しぶき後方こうほうへ千切れ飛び、柔らかな黒髪が乱流にうねった。

 全身で衝撃を受け止めながら怪物の鼻先にしがみついたトヨミには、なすすべが無いと見える。事実そのまま随分ずいぶんと突き込まれ、押され続けた。轟々ごうごうと自らを包むうずどもに縛られて動かなかった。

 だが、負けていたのではない。反撃のチャンスをうかがっていたのだ。

 自らの腰へ手を伸ばし、取り上げたのは大型の漁師マキリ、さやを飛ばし、小刀こがたなと言って良いほどの白刃はくじんが闇にひらめいた直後、彼女は逆手さかてに持ったそれを眼前がんぜんの鼻づらへ叩き込んでいる。

 巨体が跳ねる。空中へ跳び上がり、全身を打ち振るってトヨミを振り払おうとし、しかし彼女は離れない。マキリの柄から伸びた細引きへぶら下がって暴れをいなす。体表に張り付いて遠心力をしのぐ。着水と同時に細引きを素早く手繰たぐり寄せ、すかさず馬乗りになって優位に立った。尻を浮かせ、巨大な背中をよじ登る少女。

 再び相手の頭に達すると細引きを手早く腰にわえて両手を空け、今度は背負っていた手銛てもりを構えた。潜る隙を与えず、急所目掛けて全身全霊、力の限り突き立てる。

 弓なりに仰け反る巨体、それを見下ろす彼女の態度にはためらいが無い。さらに厳しい顔となって銛の穂先を捻じ込み、捻じ込み、確実にとどめを刺そうとする。

 と、水面に白い影が躍り出た。人のような姿は大分だいぶ崩れていたが、

「危ない!」

 帆織が叫ぶ。

 飛び掛かられたトヨミが身をかわす。巨体はそれを見逃さない。全身が強張ったように見え、一転、不意を突くのたうちがマキリと彼女とを跳ね飛ばした。少女は紙切れのように軽々と宙を舞い、白い潜影せんえいは鼻先に手銛を突き立てたまま、一目散に遁走とんそうを始めた。

「オニアカッ!」

 水へ落ち、川面かわもへ顔を出した彼女が呼ぶ。帆織の乗り物が大きく動く。少女と怪魚との戦いに見惚みとれていた帆織は、そこで初めて乗り物の正体に気付いた。

 エイだ。全幅ぜんぷくが六、七メートルはあろうかという巨大なアカエイが大きな緑色の両眼を波間に輝かせ、体と一体化したひれを優雅に波打たせながら彼を水上すいじょうに支えていた。トヨミの格闘を付かず離れず追いかけて、サポートの準備をしていたものらしい。水面越すいめんごしに目が合う。金緑きんりょくの瞳には老成した高い知性が明らかと萌え、帆織は思わず会釈した。

 トヨミが水中から飛び上がるようにエイの背へ乗り込んでくる。

「ちょっとどいて!」

 魚体の上を小走りに駆けて帆織を押しのけ、くらに固定されていた長々しい竿銛さおもり竹柄たけえはずす。穂先を差し込み、逃げる巨体へ素早く狙いを定める。足場を決め、竿を両手で振りかぶる。華奢きゃしゃな全身が張り詰める。

 だが、間に合わなかった。

 小さな唇から「ほう」と息を漏らし、彼女は銛を元へ戻す。しばしの沈黙の後、

「遅れてごめん。他の奴らに邪魔された」

 少女の謝罪に帆織は首を振った。何か言おうとして、だが、冷めやらぬ興奮で言葉にならない。ようやくなんとか、

「ありがとう」

 かすかすれに言う。

 あえぐ男を見下ろして、トヨミはやれやれ、といった顔つきで、しかしいつになく親しげに微笑んだ。

「それで」

 と、わずかに言い淀んでから、

「ちゃんと見えた? 今、この川で何が起きているか――」

「……多分」

「頼り無いなァ」

 今度は声を出して笑いかけた彼女だったが、

「いけない」

 すぐさま顔を引き締めた。帆織がその視線を追えば、遠くに赤青二色の明滅が見える。

「水上警察か」

 帆織が呟き、

「どうする?」

 トヨミが問う。

「どうする、って?」

「一緒に来るか、見なかったことにするか」

 そのせりふは思いもよらないものだった。帆織は相手をまじまじと見た。

「ついていって、いいのか……俺が?」

 巨大なアカエイの背中にすっくと立った少女は不敵に微笑む。両眼りょうがんはあの晩同様に輝いている。よこしまな色など一滴ひとしずくも無い。彼女はりんと、夜風に吹かれている。

 帆織は息を呑んだ。確信。あのイメージが呼び覚まされる。間違いでは無かった。幻想などでは無かった。

〝 御前みまえきてみちそなえ! 〟

 どくん、と心臓が強く脈打つのを彼は感じた。

「ああ、……やっぱりな」

 満足して微笑む帆織を、当のトヨミはキョトンとした目で見つめる。

 そなえられし道を来る者、夜の大川をべる漆黒の女騎士――、彼女こそは。誰かが道を備えずとも彼女は進むことを止めないだろう。なぜなら、彼女は。彼がついて行かずとも彼女は戦い続けるだろう。独りでも全く、充分に。なぜなら、彼女は――。だが、帆織も見たのだ。そして自分のイメージの正しさに、気が付いてしまった。

「……行こう」

「OK。じゃあ腹這いになって、ここをしっかり掴んで」

 トヨミはその答えをあらかじめ知っていたかのように頷き、オニアカの体表に張り巡らされたおびを示した。手掛かりにしたりくらや漁具を固定するためのものだ。彼女自身は鞍へ伏せ、

「少し、息をとめてて」 

 帆織が慌てて息を吸い込んだ直後、潜行が始まる。

 警笛けいてきが聞こえた直後、耳に水が入った。近づく赤色灯がにじんで見える。サーチライトの光線が貫く合間を器用にって、二人を乗せたアカエイは深みを悠々ゆうゆうと泳ぎ出した。

     ※

 餌探しならば、数キロ先に生じた血の一滴いってきをすぐさま探知できる鋭敏な嗅覚きゅうかくがある。いやらしいダルマザメの仲間ども、ともすればすぐ、こちらのどてっ腹にかじりついて円形えんけい食痕しょっこんきざもうとする連中の接近をいち早く知らせる柔肌は、側線そくせんに勝るとも劣らない立派な武器だ。

 だが、だからこそ彼らは、自分たちの顔面上部にある二つの感覚器官について、それほど重要なものだとは最近まで思ってもみなかった。随分以前、現れた男がマッチをった瞬間、彼らは初めてその器官が「光専用の受容器」であることを理解したのだ。

 もちろん、光そのものは初めてではない。周りには発光器を持つ深海魚が沢山いる。しかし彼らの光は見えはするのだけれど、あまりに弱々しかった。火の輝きほどにその器官の使い道を認識させてはくれなかった。そして自分たちが「とうな光」の届かない世界に住んでいるということも、やはり、火、ほどには分からせてくれなかった。

「やあ、お帰り」

 密閉された分厚いガラスきゅうの中から、男はほうほうのていで逃げ帰ってきた斥候せっこうへ微笑みかけた。ふんふんと頷いて報告を聞いていたが、

「リバーキーパーに殺されかけたって?」

 突然おかしそうに笑い出す。

「やらせておけよ。もう少しの辛抱さ。上がり切っちまえばこっちのモンだからね」

 なだめなだめ、まだ笑う。

 東京湾とうきょうわん海底谷かいていこく、深淵――。日本列島が誕生したその頃より海退かいたい海進かいしんが深くえぐってきたその場所は、今は水面すいめんから遠く離れた海の底として大量の水と静寂に閉ざされている。

 アレクサンドロス大王が使用した潜水球の再現版はそんな五〇〇メートル以深の水圧によく耐えた。ガラスで出来た球体に人が入っているだけなので全方位がくまなく見渡せ、その上、音もよく通す。異世界の住人との意思疎通そつうにこれほどすぐれた道具もない。

 最新技術のすいを集めた潜水艇「しんかい」シリーズよりもよほど高性能、男が密閉空間の中で煙草を吸って一向いっこう平気な顔をしているのも、御都合主義的な空気清浄の術によって内部環境が保たれているからだろう。あるいは、男そのものにっているのか。

 煙草の「火」目がけて集まってきた彼らの裸体がガラス球の周りでくるくると動いて、白い影絵が暗がりに躍るようだった。

「それで、どうやって切り抜けたんだい?」

 男は訊ね、相手の返答にやれやれと首を振る。皮肉めいたゆがみが口元に生じて、

「あれはまだ出し時じゃないと言ったはずだろう。皆で大事に飼っているんだからさ」

 目の閃きが処刑の合図だ。斥候は引き裂かれて肉塊にくかいとなり、鮮烈な中身をさらけ出して漂った。仲間が群がり、喰らい、すする。ここでの共食いは珍しいことではない。陸上から流れ込む腐肉ふにく、傷ついた魚や海生哺乳類、沈船ちんせんの溺死体、死にそうな仲間、死んだ仲間。極限環境である深海において、食べられるものは全て餌なのだ。

 だが全員で一人を山分けでは腹も膨らまない。刺激された食欲の収まらない、意地汚い表情が暗がりにきょろきょろとし、少し足りない者同士で食い合いが始まった。そうでない者も血潮ちしおの喧騒に記憶を飛ばしたらしい、球体内の男を物欲しげな目付きでうかがっている。

「ばか」

 ちらちらと流し目を受ける男はさも嬉しそうに、可笑おかしそうに嘲笑った。

「相変わらずみにくいんだからナァ」

 球体へ顔を押し付けて覗き込んでくる相手の顔を見つめ、優し気な眼差しで微笑む。

 年の頃は三十前後、仕立ての良い毛織けおりの背広に撫でつけた黒髪、細銀縁の丸眼鏡という古風な装いがしっくり似合う洋装の紳士だ。育ちの良さそうな面立ちには穏やかな微笑を絶やさず、手足のすらりと長い長身を少し窮屈そうにかがめながら悠然と辺りを見回している様子は、一見、殺風景な深海の只中ただなかにはあまり似つかわしくない。帝国式の博物館や上流階級の人々で賑わう高級文化施設、そうした中に居る方が良さそうだ。

 だがその彼が、ガラス面にぺたぺたと張り付く白い手のひらたちの真ん中で独り平然と笑うところは、これはこれで、これ以上に似合う場面も無いとも見える。

「選択を誤った者たちの末路というわけだね。人としてることを目的づけられながら、あの頃の君たちは深海を選んでしまった。別に深海が悪いと言うんじゃないが……」

 間近まぢかを通り過ぎたフクロウナギを横目に、彼は軽く肩をすくめる。こいつはまずい上に食べると腹を壊すので、余程よほどの時でない限り皆、敬遠する。

「ようは適応の度合いが問題なんだ。陸上生物としての運命を定められていた存在が、深海へ完全に適応できるはずもないのさ。君たちは、居る場所を間違っている」

 ぐっと見据えた視線を嫌い、真正面にいた数匹が慌てて顔をそむけた。しかし密閉容器をかしてとめどなくあふれ出す言葉からは、どうにも逃れられない。

「同じ御先祖様から発し、地上への道筋を選んだ者たちは程度の差こそあれ、様々に人となり、その後一つの種類に絞られはしたけれど、万物の霊長として良くも悪くも陽の下で繁栄を謳歌しているよ? それは幾つものチャンスを偶然、本当に全く偶然、モノにしたから得られたのさ。その一方、君達はどうだ?」

 問いかけには哀れみと嘲笑が同時に込められており、

「互いに見たまえ、そのいびつな体を……。たった一度の選択ミスのために、冷たく暗い深海で魚にも人にもなれず、内在する形相けいそう不細工ぶさいくに体現して醜さばかりをさらしている。絵にも描けない陰鬱な停滞を垂れ流しにしている。こいつは不公平じゃないか? 能動的に動いたのはむしろ、君たちの方だったと言うのに!」

 いつの間にか、半径数キロの範囲に散らばっていた彼らの全てが潜水球の周囲に集結し、この不思議な宣教師の話を謹聴きんちょうしていた。記憶と感情をよみがえらせ、高ぶらせていた。

「やり直したいと思うだろ?」

「今がチャンスさ」

「奴らにはもう、任せておけない」

 畳み掛ける彼の言葉は新たな拡張を予感させるのだ。興奮した彼らは血管の浮かぶ青白い柔肌をブルブルと細かく震わせながら、球体の周囲を縦横無尽、滅茶苦茶に泳ぎ回る。妖しげな期待に胸ふくらまし、打ち震える。

 そんな様子をにこやかにながめつつ、男の唇はまた、そっとゆがんだ。

© 2016 髙木解緒

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